先輩会員さんの体験談
城南支部 松葉壮年さん(85歳)
大阪教会創立60周年の佳き年に、会員特別功労者の表彰をいただき、誠にありがとうございます。皆様のお陰様でいただけたと感謝しています。
佼成会とのご縁は昭和39年、仕事関係の西山ご夫妻から「ご先祖様を大切にする教え」と導かれ入会しました。でも仕事が忙しく特に活動はしてなかったのですが、昭和42年当時の大成支部長さんからご本尊拝受のお声がかかり、ご安置していただきました。それからは法華経の勉強会・壮年部の夜間法座と忙しい日々が始まりました。槌田支部長さんの時、壮年部長のお役を拝命し、当番修行では伊藤君・麻木君をはじめ壮年部の皆様にお世話になりました。
三男は、いつも車で教会等に送ってくれ、妻にも影役で随分助けてもらい、改めて感謝の気持ちでいっぱいです。三人の息子たちが、それぞれ良い伴侶と縁になり、孫六人に恵まれたこと、本当に有難い功徳をいただけました。ご先祖様から引き継いだこの命を全うするその時まで、常に感謝の心で精進いたします。合掌
]]>猿樂教会長のことば(3月15日号)
お彼岸の季節を迎えました。暑さ寒さも彼岸までといわれますが、早咲きの桜を目にするこの頃、春の訪れが近いことを感じます。
このお彼岸は、日本独自の仏教行事で浄土教に説かれる浄土思想を基にしています。よく極楽浄土や西方浄土といいますが、昼と夜の時間が同じ長さになる春分・秋分の日、その真西に沈む太陽のずっと彼方に極楽な浄土があると信じて生まれた信仰がお彼岸なのです。私たちもどうせ行くなら極楽浄土がいいに決まっています。わざわざ誓願してまで地獄を選ぶ人はいないでしょう。極楽浄土に行くには今世で徳を積むことが条件となるそうですが、その浄土行きの切符の一つが亡くなられた方々に思いを馳せる供養でした。
さて、お彼岸の月となりましたが、ある女性の会員さんの体験を紹介します。
その会員さんは65歳のときに膀胱を患ってしまいました。医者から、場合によっては膀胱を摘出するという苦しい診断をいただき、摘出するべきか、このままで治療を受けるべきか、迷いの中で訪ねて来られました。その会員さんに尋ねてみると膀胱はそのままにしたい、その上で治療を受けたいという願いです。そして会員さんにこれまでの人生を伺ってみました。
29歳のときです。ご主人さんはトラックの配送業をしていましたが交通事故に遭い亡くなってしまったそうです。その後は、家に鳴り響く電話は主人からではないか、生きているのではないかと急いで電話に出たことも幾度となくあったそうです。受け入れがたい事実にさびしさやわびしさを感じながらも残された二人の子どもの将来を案じ懸命に生き抜いてきました。そして、子どもたちを立派に育てあげ、これから老後のときをどう過ごすか、そう考えていた矢先の病気発覚でした。
鑑定してみると膀胱を患うような会員さんではありませんでした。亡くなったご主人を鑑定してみるとご主人が膀胱を患うような結果が出たのです。三十数年経っても主人が私とともにいる…。そう気づいた会員さんは早速、主人のご供養をします。これまでも幾度となく年回供養や追善供養をおこなってきました。しかしそれは残された者の悲しみのご供養であり、事故という悲痛のご供養です。でも今度のご供養は違います。もう一度、あの幸せなときを思い出して…。
そして車で1時間はかかる教会へ来るたびに、霊鷲山の石を膀胱にあててお題目を唱えます。1年が経過したころ、医者は膀胱に通した内視鏡を見て驚きます。「膀胱が光っている!」と。もちろん、医者やその病院の医療スタッフの献身たる素晴らしい治療が病気を治したことは言うまでもありません。しかし、そこに同時並行して、ご主人への感謝の供養と仏さまを感じる霊鷲山の石への帰依心が治療を支えたのは間違いないことでしょう。
本来、彼岸とは迷いの世界を離れて、悟りの世界に到達するという意味です。この会員さんも、膀胱を患うことを通して、これまでのさびしさやわびしさという迷いを離れて、ついにご主人への感謝に目覚めることができたのです。まさに浄土という世界に心を置くことが出来たのでした。
]]>3月の猿樂教会長あいさつ
今月、教団は創立86周年を迎えます。また3月31日には、大阪教会は教会発足60周年を祝い幹部指導会を行います。
さて、昭和13年3月5日に誕生した立正佼成会ですが、創立する直前、開祖さまはこのようなお心でいらっしゃいました。「人のために奉仕をするということが、人間の人間たる資格であると思う。そして、できるだけ多くの人が〈奉仕の精神〉を持ちうるところに、人間社会の平和と幸福が生まれるのである。もしすべての人間が、自分の利益を追う打算的ばかりで行動したとしたら、世の中は油の切れた機械のようにぎしぎしきしんで、とうてい住むにたえないであろう。いや社会という機械そのものが過熱して爆発するか、すり切れて壊れてしまうだろう。〈奉仕〉は人間社会の潤滑油である。(中略)人と社会に奉仕することは、世の中の動きに潤滑油を注ぐことにある。一滴の潤滑油でも、大きな機械の動きを滑らかにする。たとえ一滴でもいいのだ。仏教では、この潤滑油を〈菩薩行〉と呼ぶ。」
こうして、立正佼成会は、日本が戦争に突き動かされていった昭和13年3月5日に、法華経を世に広めるという創立の精神と併せて、人間社会の一滴の潤滑油のようになることを願って創立されました。
現在に目を向ければ、2年が経過したロシアによるウクライナ侵攻、昨年10月には中東のパレスチナとイスラエルの戦争。そしてミャンマーやスーダンにおける国の内戦。世界各地ではいまだ尽きることなく戦争・紛争が続いています。また、国内に転ずれば、幼児虐待や育児放棄など家庭内で起きている不適切な養育。独居老人の増加や希薄な人間関係といわれる無縁社会。企業や団体の中では人の尊厳を脅かすハラスメント問題。
家庭も社会も世界も人と人をつなぐ歯車に大きなきしみが生じている今、開祖さまのおっしゃる通り、住むにたえない、すり切れて壊れてしまう世界がもうひたひたと寄ってきているように思えてなりません。仏教では、このようなきしむ社会を生み出す元凶は、人間の貪欲(とんよく)や割愛(かつあい)、驕慢(きょうまん)な心と捉えています。貪欲とは飽くことを知らない欲求であり、渇愛とは感覚的な快楽やものへの極端な執着です。また、驕慢とはおごり高ぶった心です。
こうした貪欲や渇愛、驕慢な生き方を制御するためにも「謙虚で慎み深く、それがひいては地域、社会の人びとの心にぬくもりや元気を与える―そのような教団でありつづけること」「慈悲という釈尊の教えの根本に立脚してものごとを考え、行動すること」と、「慎み」と「慈しみ」をもって生きることの大切さが創立の月である今月の『佼成』会長法話に示されています。
ご縁のある方、これから出会うであろう一人ひとりに「慎み」と「慈しみ」をもった身の振りと言葉で接してまいりましょう。それがきしむ社会を滑らかにする一滴の潤滑油になると念じて。合掌
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会長法話
「慎み」は、「慈しみ」から
庭野日鑛 立正佼成会会長
「慎む」とは思いやること
「我宿の草木にかくる蜘蛛の糸払わんとしてかつは(すぐに)やめける」という歌があります。良寛禅師のやさしさがあふれた、あたたかな一首です。ふと払おうとした蜘蛛の糸、そこに精いっぱい生きる小さな命をみとめ、思わず手をとめた良寛さんのほほえみまでがめ目に浮かぶようです。
なんの気負いもないちょっとした所作のなかに、人としての慎み深さと、あらゆるものを包みこむ慈悲心を感じます。
慎み深くあることについて、釈尊は「身と言葉を慎み」や「身体、言葉、心を慎むのは善い行為である」など、先月号の「恥じること」と同様に、その大切さをしばしば述べておられます。私たちはこの言葉を、ともすると一般的な生活規範のように受けとめがちですが、 良寛さんの歌を見てもわかるように、慎みとは、慈悲と一体のものではないかと私は思うのです。仏教学者であり、曹洞宗の僧侶でもあった奈良康明師によると、釈尊の教えは「すべて『慈悲』というものに根拠をもって説かれている」といいますから、「慎む」ということも、思いやりの心を深めるものであればこそ、仏の教えとして説かれているのです。
では、私たちに良寛さんと同じことができるかといわれると、至らぬ自分にそこまでは‥‥と、つい弱気になりそうです。それでも、せめて気がつくかぎり、慎みと思いやりをもった言動を心がけたいものです。
なぜなら、奈良師の言葉をお借りすれば、「慈悲とは慈悲の実践つまり訓練によって増大し、熟していく」ものだからです。悟ったから慈悲心が起こり、慎み深い行ないができるのではなくて、他を思いやって言動を慎み接するなかで「みんな一つに結ばれている自他一体の命なのだ」と気づくことが大切で、そこに一つの悟りがあるのです。
身近な実践から世界の問題まで
ところで、開祖さまは、本会の根本道場である大聖堂建立の年、いまから六十年前の三月四日に、 「教団は大伽藍ができると既成化する」と述べています。建物が大きいからりっぱな教団なのではなくて、また伽藍ができたからそれで教団が成熟したということでもなく、そこに集う同信の仲間一人ひとりが、仏の教えを学んでいつもいきいきとして、謙虚で慎み深く、それがひいては地域、社会の人びとの心にぬくもりや元気を与える―――そのような教団でありつづけることが大事だと伝えたかったのでしょう。
その意味でいえば、本会の「一食を捧げる運動」が長くつづけられているのはとても重要なことです。もともとは松緑神道大和山教団のみなさんが実践されていたものですが、月に数度、各自の食事を抜いたそのぶんを献金させていただくという、まさに慈悲の心を実践に移し、それがまた社会貢献にも結実する身近なこの活動を、これからも大切につづけてまいりたいと願っています。
また、世界宗教者平和会議など、宗教や宗派の枠を超えた仲間が、世界的な課題の解決をめざして対話を重ねることは、参集するそれぞれが謙虚に、自制心と慎みをもって臨まなければできないことです。開祖さまがその土台を築いてくださったのは私たちの一つの誇りと受けとめていますが、そうした活動が形骸化しないためにも、私たちはつねに慎みを忘れず、慈悲という釈尊の教えの根本に立脚してものごとを考え、行動することが大事なのだと思います。
釈尊には、「あらゆることに慎み、恥じる人は自己を護る」というお言葉もあります。この「自己」を「宇宙全体と一体の自分」と受けとめると、身と言葉を慎むことの意味の大きさがより胸に迫り、世界のあらゆる場所で、一人ひとりが身と言葉を慎むことを念じずにはいられません。
]]>猿樂教会長のことば(2月15日号)
2月15日はお釈迦さまが涅槃に入られた日です。
お釈迦さまは、生まれて間もなく母を亡くします。母の妹に育てられますが実母がいなかったせいでしょうか、とてもナイーブだったようです。畑にいる虫を飛んできた鳥が食べるのを見ては心を痛め、老いた人を見ては心が傷つき、病の人を見ては哀れみ、亡くなる人を見ては嘆き悲しんだといわれています。避けようのない生老病死という人生の悲哀から解脱を求めて29歳で出家し、35歳で悟りを開かれました。
80歳で入滅されるまでの45年間、人々が抱える悲しみ、さびしさ、つらさ、苦しさという感情に向き合い、そして寄り添いながら、苦悩からの解放の道を説き続けます。
さて、晩年から涅槃に入られるまでの間を記したお経があります。大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)です。入滅を前にしたお釈迦さまが弟子である阿難にこう語ります。
「この世は美しい。人のいのちは甘美なものだ…」。
苦悩に満ちた人生から解脱の方法を追い求め、人々を教化してきたお釈迦さまでしたが、いよいよ入滅が近づいたとき、この世のありとあらゆるもの、人間に訪れる人生の悲哀、生と死までもが美しく輝きを放つものであったと、このお経は伝えています。
そして、人生をより美しく輝かせることができるよう弟子たちに最後の教えを説きます。自分の人生は自分で輝かすことができる。明るく美しく人生を輝かすためには正しい教えを拠りどころとすること。この正しい教えを拠りどころに生きれば人生は必ず美しく輝く。それが自灯明・法灯明というお釈迦さま最後の教えです。
人生を美しく輝かせる教えである自灯明・法灯明。お釈迦さまが入滅されてからおよそ二千五百年の間、仏教徒たちはこの教えを大事に語り継ぎ実践してきました。
2月15日はお釈迦さまを偲ぶ涅槃会。私たちも自灯明・法灯明の教えに倣って、人生を輝かせてまいりましょう。
]]>節 分 会
◎令和6年2月3日(土)
8:30 序奏/オープニング
9:00 開式
司会:教会教務スタッフ
お題目三唱 会員綱領唱和
9:05 読経供養
導師:猿樂教会長
鐘・木鉦:教会壮年部
太鼓:青年部
16番・陀羅尼五回
9:30 内陣豆まき
聖壇:猿樂教会長
9:35 追儺・還暦者の紹介
(テロップ)
追儺:男性23名 女性12名
還暦:男性:24名 女性22名
9:40 講話 猿樂教会長
10:20 お題目三唱
10:25 閉会の辞
<還暦者コメント:大東支部 木村壮年部>
還暦を迎え、両親、ご先祖さま、ご本仏さまに深く感謝いたします。還暦とは一に帰るまた、生まれ変わるという意味があるそうです。猿樂教会長からは今年(九紫火星)は準備の年と教えていただきました。すべての人に生かされている感謝の気持ちを菩薩行の実践の形として、心新たに明るく、元気に精進して参ります。
◎猿樂教会長の講話(一部抜粋)
運勢は断定なく、あくまでも傾向です。良い運勢(吉)なら安心ですが、悪い運勢(凶)だと不安になります。悪い運勢(凶)は、今年のハードルだと心得てください。ハードルは飛べば乗り越えられるのです。
そのハードルを乗り越える行為。それが菩薩行です。
]]>2月の猿樂教会長あいさつ
いよいよ寒修行が始まりました。寒修行は一年で最も寒さが厳しいとされる大寒の1月20日から節分の2月3日までの15日間で行われます。『法華三部経』の読誦を通して内省し、今年1年の誓願目標を立てるとともに、仏道修行に励む心構えをつくる修行です。
教団の草創期の寒修行はどのようなものなのであったのか…。開祖さまのご法話を調べてみますと昭和62年3月号の『躍進』に、このように述べられていました。
「寒修行など、一月から二月にかけての期間中、毎朝四時に起きて水をかぶる。二十杯、三十杯とかぶって、それから三部経をあげ、経巻をあげる。信者さんはそれぞれ自分の家で、主体的にこの行をやったもんです。だから、驚くほどの現証が続々と出た。奇跡としか言いようのない結果が出たものです。今もこのとおりしなさいとは言わないが、そうした精神を失っちゃいけない。人を救い、世を救うためには、すくなくとも自分の好きな物を断って、断ち物をして祈るぐらいの気魄、情熱、それが欲しいね…。」
このご法話のように断ち物をして祈り、奇跡をいただいたある主任さんの体験をお伝えいたします。
主任さんの息子さんは就職していた会社が経営破綻し、その後、別の会社に再就職はするものの契約はアルバイトでした。息子さんを心配した主任さんは、何とか正社員のお手配をいただきたいと願っていました。ところがあるときサンガの仲間から指摘されます。「あなたは、自分は仕事し放題、遊び放題、その間に片手間にお役をして、そんな生き方でいいわけないよね」と。このことを心構えに寒修行に臨み、法華経読誦が進む中、ハッと気づきます。「子どものことで祈っているようで、私もまた仏さまに祈り祈られ願われているんだ。自分都合で片手間な気持ちでお役をしていた。子どもを変えるのではなく、自分が変わろう。お役も正社員のような気持ちでさせていただこう。」と。そして思い切って仕事を辞めることを決断しました。すると不思議なことに息子さんが正社員のお手配をいただいたそうです。
まさに感応道交という、主任さんの心と仏さまとの心が通じ合った世界でしょう。主任さんは、開祖さまのおっしゃるように気魄と情熱をもって寒修行に臨み、法華経に説かれていることは何なのかと観察し、仏さまのお心は一体どのような世界なのかと感じたのです。寒修行は観修行、感修行ともいわれます。法華経を観じる修行、仏さまを感じる修行の15日間とさせていただきましょう。合掌
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会長法話
「恥じること」は、善く生きること
庭野日鑛 立正佼成会会長
人間の基本
冬から春へと移り変わるこの時季の節分といえば、家のなかで「鬼は外、福は内」と唱えながら、炒った福豆をまく「豆まき」が日本の伝統行事として知られています。体調をくずしやすい季節の変わり目に、病をもたらす疫鬼を払って息災を願う行事ですが、私たちは疫鬼とともに貪・瞋・痴といった心をまどわす邪気をも払って、身心ともに健やかに、うららかな春の日を迎えたいものです。
ところで、同じ「心の鬼」でも、それを一文字で「愧」(忄りっしんべんに鬼)と書くと、意味あいがまったく変わってきます。こちらのほうは、むしろ払ってはいけない心、私たちがけっしてなくしてはならない心といえるものです。それは、自分の言動の過ちや至らなさに気づいて恥じる心です。
「慚愧」という言葉がありますが、この愧はもちろん、慚も「恥じること」を意味し、浄土真宗の親鸞上人は、信仰的な受けとめ方でより深く、この言葉の意味を説いておられます。慚とは自らの罪を恥じること、愧とは人に自らの罪を告白して恥じ入ること。また、慚は人に対して恥じることで、愧は天に恥じることだというのです。そのうえで親鸞聖人は「無慚愧はなづけて人とせず」といわれます。
恥じる心がないのは、本能のままに生きる動物と同じでけっして人とはいえない、恥じる心があればこそ、人が人として敬意や節度をもって生きることができ、人間関係も社会も成り立つということだと思います。「恥じること」は、いわば人間の基本条件といえるのです。
恥じることで救われる
では、私たちは何に対して「恥じること」が大事なのでしょう。親鸞聖人は「自らの罪を恥じる」
といわれますが、罪とはどのようなことだと、みなさんは思われますか。
「恥を知れ」という言葉を、人を非難するとき、その相手に向かって使う人をときおり見かけますが、この言葉は自分自身に向ける言葉だと思うのです。「恥を知れ」と内心で自分につぶやけば、ときに「私はいま、思いあがっていないだろうか」と謙虚さをとり戻したり、「欲望まるだしなのではないか」と反省したり、あるいは「家族に顔向けできないことをしようとしているのではなかろうかと」 とやましい行いを思いとどまるかもしれません。
私たちは「恥を知る」ことによって、日常生活のなかで知らず識らずに犯している罪から救われるということです。自分を苦しめたり、人を傷つけたりしないですむのです。「人間は恥ずる心を養いさえすれば、どうにか救われる」
碩学として知られる安岡正篤師の言葉ですが、私なりにいえば、恥を知ると、人は「真人間」に生まれ変わります。しかも、恥じる心は仏性と同じでだれにもあるので、恥を知る限り、人はいつまでも成長しつづけられるのです。
恥じることを心にとどめる、その心得を説くように、「つねに善き友に会って心をはずかしめられよ」といわれたのは浄土宗の法然上人です。釈尊は、善き友は仏道のすべてといわれましたが、家族をはじめとする身近にいるサンガは、いつでも自分のことを見守っていてくれる人です。ですから、恥ずべき行いは諫めてくれるでしょうし、私たちも愛する家族や仲間の前で恥ずかしい生き方はできません。サンガという善き友によって、私たちは自然に「はずかしめられる」のです。そうして心田が耕され、恥じることができるのは、サンガもまた仏さまだからです。
一方、社会や世界はいま、欲望と憎悪に満ち、人間らしい「恥」をわすれたが如き危うい情勢にあります。「恥」の字源は「懾れ」ですが、私は人が神仏を敬しておそれ、恥を知って生きることの大切さを強く思うのです。
]]>1月の猿樂教会長あいさつ
大阪教会60周年を迎える今年、明るく元気に、そして荷車を運ぶ牛のように、ゆったりと堂々と精進してまいりましょう。
お正月の三が日は皆さまも心を痛められたのではないでしょうか。能登半島を襲った地震、羽田空港における航空機事故、北九州の繁華街で起きた大規模火災など目を覆いたくなるほど痛く悲しいニュースばかりでした。犠牲になられた皆さま、そして支援活動のために尊いいのちを犠牲にされた方々にお悔やみと哀悼の意を表します。併せて、被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げます。いまだ安否のわからない方々に、信仰を持つ私たちは深い祈りを捧げ、一刻も早く発見されることを祈念させていただきましょう。
さて、今年初めの『佼成』では会長先生から〜「心田を耕す」精進を〜とご法話をいただいています。私たちは、仏道修行や精進と聞くと固く難しく考えてしまいがちですが、会長先生は初期の経典「スッタニパータ」を引用して「精進は荷を運ぶ牛で、安穏の境地に運んでくれる」と、田んぼを耕す牛にたとえて、安穏の境地に向かうにはゆったりと無理のなく実践することが精進であり、生きる基本であると教えてくださっています。
「人間はみな同じ」「すべては一つ」「一人ひとりの命は等しく尊く、有り難いもの」「みんな一つの“いのち”につらなる仲間」という、これらの認識こそがまさに精進の基本です。
このお正月はみなさんも心を痛められたはずです。被災された人々に心を寄せ、亡くなられた方々のご冥福を祈り、いまだ安否がわからない方々の一刻も早い発見を願って祈願供養をされた方、され続けている方々も多いのではないでしょうか。そこにはもはや他人と自分という境がなくなり自他一体の一つのいのちに貫かれているという自覚する心がご宝前の前に額づかせたのだと思います。
その思いやりの心がとぎれることなく深い祈りを捧げさせていただき、また、私に何ができるのか、自分自身に問いかけながら、家族と語り合っていく今とさせていただきましょう。
]]>会長法話
「心田を耕す」精進を
庭野日鑛 立正佼成会会長
「精進は荷を運ぶ牛で……」
みなさま、あけましておめでとうございます。
「門ごとにたつる小松にかざされて宿てふ(という)やどに春は来にけり」は、家々に春がおとずれる晴れやかな気分を詠んだ、西行法師の新春を寿ぐ歌です。新年に門前を松で飾る家もいまは少なくなりましたが、この日本のすがすがしい正月風景のようにさわやかな気持ちで、お互いさま、一年を明るく元気にすごしてまいりたいと思います。
ところで、私たちは仏さまの教えを学ばせていただき、そのことによって人間として一歩でも二歩でも向上したいと願っています。それはけっしてかなわぬ願いではなくて、仏のように生きようと思い立ち、教えに随って精進していれば、いつでも人間としての成長や向上の喜びが得られると教えていただいてます。
ただ、仏道修行や精進と聞くと、りっぱに努めなければ、すばらしい人であらねばと感じる人も多いようです。しかし、初期の経典「スッタニパ−タ」のなかで、釈尊は「精進は荷を運ぶ牛で、安穏の境地に運んでくれる」と説かれています。この表現には苛烈さや謹厳な印象などみじんもなく、むしろゆったりと静かに荷車を引く牛の姿や、牛が犂を引いて田を黙々と耕す様子が思い浮かびます。 そのようなことを念頭において、私たちもまた急がず休まず、仏の教えをとおして心の田を耕しながら、人生をゆったりと 歩むことが大切ではないかとの思いから、およそ四半世紀前に、私は『心田を耕す』を上梓いたしました。
そのなかで先の一節もご紹介しましたが、それは釈尊の肉声にもっとも近いとされる聖典の詩偈をとおして、宗派や経典の違いを超えて共通するもの、仏教が教える人間の生きる基本をみなさんといっしょに考えたいと思ったからです。そのうえで、釈尊が伝えたいと願われたことをシンプルに受けとり、日々の生活のなかで無理なく実践することが、安穏の境地へ向かう精進ではないかと思うのです。
では、釈尊が伝えられたかったこととはなんでしょうか。
とぎれることなく
開祖さまは、「<人間はおなじ>・<すべては一つ>………これが仏教の根本思想にほかなりません」と明言しています。そのことに目ざめれば、ものの見方が変わり、生き方が変わり、そういう思いに立つ人がたくさんいる世界になれば、みんなが仲よく生きられる――それが仏教の教えるところだということです。たとえ教団や宗派は違っていても、みな「一人ひとりの命は等しく尊く、有り難いもの」「みんな一つの“いのち”につらなる仲間」という釈尊の教えのもとで一つに結ばれ、それを人びとの性質や多種多様な求めに応じてそれぞれに表現しているのだと、私は受けとめています。
曹洞宗永平寺の貫首をつとめられた山田霊林師は、「道元禅師は何を見ても何を聞いても、それが『自分自身』であることを感じられました。(中略)わたしたちが『他人』と呼ぶところを、禅師は『他己』と申されます。 他は他であるが、それがそのまま『己れ』として感ぜられ、その喜びも悲しみも『己れ』の喜び『己れ』の悲しみなのであります」(「大法輪」第三十六巻・第三号)と記され、それが「人間のほんとうの生活」だというのです。
仏道における厳しい修行も精進にちがいありませんが、私は日常生活のなかで、自分本位の欲や怒りや嫉妬に心を惑わされるたび、「人間はみな同じ」「すべては一つ」という心に立ち返ることが精進であり、それをとぎれることなくもちつづけるのが私たち人間の生活、釈尊の願いに根ざす生き方であると思います。この気持ちが、日々の何気ない言動を支えるものになるよう心田を耕しつつ、一日一日を健やかにに、安らかに歩んでまいりたいものです。
]]>12月の猿樂教会長あいさつ
皆さま よろしくお願いいたします
日々ありがとうございます。
令和5年12月10日に大阪教会長のお役を
拝命しました猿樂年央です。
皆さま、どうぞよろしくお願いいたします。
まずは、簡単に自己紹介をさせていただきます。猿樂とは能面を付けて舞う能(能樂)の旧称です。昔の結婚式でよく謡われた『高砂』という謡曲も猿樂の一つにあたります。新郎新婦が座る一段高い席を高砂席というのは実はその名残です。そういう私は昭和42年に北九州市門司区で生を享けました。その6年後の48年に、生活苦を理由に母が門司教会に導かれました。
経済的に困窮していた我が家の問題がすぐに解決したわけではありませんが、家で問題が生じると早朝、深夜を問わずいつでも導きの親が駆けつけてくださったのを憶えています。私にとって導きの親は修羅場の中に現れた観音さまのような人でした。いつしかこのような人になりたいと思うのと同時に、導きの親は大人になった私をご本部へ奉職することを勧めてくださり、平成2年に奉職しました。
本部勤務後、関西四国教区の青年教務員のお役を通して大阪教会の皆さまにお育ていただきました。青年幹部教育やレディース教育などの青少年育成を担当させていただきましたことは懐かしい思い出です。その後、神奈川県の大和教会長、東京都の豊田教会長、九州の熊本教会長のお役を、そして再び大阪教会でご縁を結ばせていただくことになりました。18年ぶりの大阪は、高層ビルも増えていて街の賑わいもパワーアップされておりました。耳にする懐かしい大阪弁に「ああ、大阪に帰ってきた!」という実感とともに、元気のよい笑い声が私のエネルギーになっています。きっとサンガに皆さんもますますパワーアップしているだろうと期待に胸を膨らませるここ数日です。
さて、今年最後となった『佼成』の12月号は「いつでも元気―病も辛苦も善知識」というご法話を会長先生からいただいております。
「災難や生老病死の苦しみは、この世のだれ一人として避けることができないものです。人の力ではなすすべのないもの、仕方のないことなのだから、それをあるがままに受けとめることが、その辛苦に押しつぶされないですむ唯一の手立てなのです。」と教えてくださっています。とはいえ、あるがままにその辛苦を受けとめることはなかなかできないのが本音でしょう。肯定することは難しいといえますが、「病弱な自分を救ってくれたのは、真理に気づくきっかけとなった病気そのものだった」という京都・禅林寺の永観律師の言葉を引用し、病や辛苦などの不都合な出来事を真理に気づくきっかけとすることの大切さをお示しくださっています。その見方が身につけば私たちの身心も元気になることでしょう。
過去のつらい出来事も思い通りにならなかった過去も、ご法話のように真理に気づけばみなおかげさまに変わります。まるで人生を化粧するように。
私たちが所依の経典とする法華経は私たちに仏さまがくださった究極のプレゼントです。過去も現在も未来もいくらでも彩りを変えることが出来る魔法の化粧品のようなものです。
来年、60周年を迎える大阪教会のサンガの皆さまとともに、人生を彩ってまいりたいと思います。どうぞ皆さまよろしくお願いいたします。 合掌
令和5年12月17日
教会長 猿樂年央
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いつでも元気――病も辛苦も善知識
庭野日鑛 立正佼成会会長
「災難に逢う時節には……逢うがよく」
十二月八日は、釈尊が悟りを開かれた日を祝して感謝の誠を捧げる「成道会」です。釈尊の説かれたご法にめぐりあえたことのすばらしさ、有り難さを、お互いさま心からかみしめさせていただきたいと思います。
さて、同じく十二月八日、といっても文政十一年(一八二八)の成道会の日に、良寛禅師は、釈尊が悟られた真理を「血の通った生きた法」として伝える一通の手紙を、大地震に見舞われた友に書き送っています。
「うちつけに死なば死なずに長らえて かかる憂き目を見るがわびしき」(だしぬけに死ぬこともなく、生き長らえて、このような憂き目を見ることの、なんと苦しいことよ)と詠んで、まず友をいたわったうえで、「しかし」とつづけ、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ、災難を逃るる妙法にて候」
と諭されたのです。災難や生老病死の苦しみは、この世のだれ一人として避けることができないものです。人の力ではなすすべのないもの、仕方がないことなのだから、それをあるがまま受けとめることが、その辛苦に押しつぶされないですむ唯一の手立てなのです、と。
「災難に逢うがよく候」とは、一見、冷淡なもの言いですが、私はこの言葉を目にし、口にするたびに、なんと歯切れのいい言葉かと感じ入り、心がすっきりとします。真実を伝える厳しさとそこにあふれる慈しみ、そしてそれを受けとめられるだけの機根をもちあわせた友人(サンガ)との信頼関係に、すがすがしささえ覚えるのです。
健やかに、おだやかに生きるとは、こういう心持ちで、日々を感謝とともにすごすことにちがいありません。
ただ「心田を耕す」のみ
ところで、法華経の一節に「提婆達多が善知識」とあります。提婆達多は釈尊の弟子であり身内であるにもかかわらず、釈尊を殺害しようとまでした人物です。釈尊は、その人を「善知識」――開祖さまによれば、「人生をどう生きなければならないかという大問題に眼を開かせてくれる友」――だというのです。また、「病はこれ真の善知識なり」といったのは、京都・禅林寺の永観律師です。「病弱な自分を救ってくれたのは、真理に気づくきっかけとなった病気そのものだった」という感謝の思いがここに見てとれます。
災難も病も、それに遭えば嘆きたくなるのがふつうです。しかし、それらをこの世のことわりとして受け入れ、善知識ととらえれば、辛苦に打ちひしがれるどころか、心静かに、たくましく前へと進む智慧に目ざめるということです。
また、健康と病は対立するものではないという見方もあります。生と死が表裏一体であるのと同様に、健康だから病気にもなり、病気になればこそ健康の有り難さもわかる。つまり、「病も健康のうち」というわけです。
今年一月号の本誌で、私たちは本質的に元気な存在だとお話ししましたが、こうして見てくると、もともと健康で元気な身心を与えられ、ときに不調があっても、それを生きる力に変えていく能力を私たちはいただいているのです。
ある方は「全力をだしきって行動し、ぐっすり眠ること」が健康の秘訣といっていますが、それは自分のなすべきことに精いっぱいとりくむと、もちまえの「生のエネルギ−」がはたらくということでしょう。そのうえで、私たちにとってさらに大切なのは、欲や怒りを越えて、和やかな心をもって日々、精進をつづけること、心田を耕すことです。
新たに迎える年をいっそう元気にすごすために、私はまた新鮮な気持ちで釈尊をたずね、拙著などもふまえつつ、「心田を耕す」ことについて考えてみたいと思っています。
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☆大阪教会60周年前夜祭☆
城南支部
ガーデンエリア歓談&和食ランチ
実施報告
(参加者人43人)
令和5年11月19日(日)
11:20 〜13:50
○杉本支部長コメント
城南支部では、今回の大阪教会発足60周年記念『前年祭』を企画するにあたりまず、高齢者の方でも参加しやすい場所として、支部のエリアから交通至便の「あべのキューズモール」を選定しました。この4階には「ガーデンエリア」が設けられ、都会のど真ん中にいながら自然を味わえる素晴らしいところです。
お陰様でお天気に恵まれ、4歳から86歳の参加者は、この4年間コロナ禍でなかなか顔を合わせることができなかった会員さんたちと旧交を温めることができ、どのお顔も笑顔にあふれ、大変有意義なときを過ごすことができました。
城南支部の皆さん!この先も心身の健康を大事に「健幸行」に「お手取り」に精進させて頂きましょう!
☆大阪教会60周年前夜祭☆
渉外部の集い実施報告
「和宗総本山四天王寺」参拝
令和5年11月12日(日)
10:00〜14:00
(参加者25人)
〇渉外部長コメント
渉外部では、宗教協力に基づく平和境の実現を目的として、コロナ禍前は毎年他宗教の施設を訪問して参拝させていただいてきましたが、コロナ禍の3年間は中止せざるを得ず、この度、やっと支部渉外部の皆さんと共に参拝させていただくことができて、とても嬉しかったです。今年は、日本最初の官寺であります「和宗総本山四天王寺」を訪問させていただきました。石鳥居、極楽門、金堂、五重塔、中門、太子殿などを見学し、ご本尊の救世観音さまを参拝させていただくことができ、とても有り難かったです。とても勉強になり、是非また参拝させていただきたいと思いました。四天王寺さま、誠にありがとうございました。その後、渉外部の皆さんと懇親を深めて、来年の大阪教会発足60周年に向かっての精進を決定し、お開きとさせていただきました。誠にありがとうございました。
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聖壇開帳時間:午前9時から午後1時
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東教会長のことば(11月25日号)
大阪教会のみなさま (*^^*)“ありがとうございました”
日本には72の季節があります。
天候や植物、虫などの様子によって季節に名前がつけられていて、いまの時期は「朔風払葉」と書いて「きたかぜこのはをはらう」と読む季節です。冷たい北風が木々の葉を落とす頃という意で、いよいよ冬の到来です。冬支度を急ぎましょう(*^^*)
さて、お手元に佼成12月号が届けられたでしょうか。
ちらりと表紙を見ると「元気」の文字が…。年初号の「元気で精進を」の題名を思い出し、ご法話が一年を通して私たちの安否を気遣って下さった「お便り」に思えてきました。読み返してみると、元気の「元」の意味は、私たちには常に宇宙のエネルギーが充満していて、常日頃から元気で健やかなのだとあります。
12月号のご法話は、「いつでも元気」です。
そして副題に「―病も辛苦も善知識―」とあります。病や辛苦に遭えば嘆きたくなるのがふつうですが、打ちひしがれたり、押しつぶされないですむ唯一の手立てとは。それどころか、心静かに、たくましく前に進む手立てとは…。読み進むと、どんどんなかに引き込まれてしまいました。
本文を覗くと、「病も健康のうち」「生と死は表裏一体なのだから」と達観した智慧が示されています。年初号の「もともと健康で元気な身心を与えられている」とは、病や辛苦を生きる力に変えていく能力を私たちはいただいているのと同義語であり、真理の言葉ではないかと思います。一番大切なことは、欲や怒り(三毒ですね)を越えようと精進することで、<自然と一体であり、大自然の徳をいただく>自分自身に気づけるのだと感じました。
この一年、私たちの常日頃は、どんなものだったでしょうか。自分勝手な生き方をしていることに気づき、自分自身を危ぶみ、戒めてある気遣いをもった常日頃だったでしょうか。そんな精進の日々が、「いつでも元気」な自分自身をつくるのだと確信しました。師走を控えて、そんな心で今年一年を振り返って精進したいものです。 合掌
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前回お知らせしました通り、今回の投稿で最終回を迎えました。長きにわたりまして拙稿をご覧いただきましたことに深く感謝を申し上げます。誠にありがとうございました(^^)
※60周年マーク、どうぞご自由にお使いください。
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☆大阪教会60周年前夜祭☆
城北支部
水上バス&イタリアンランチツアー
実施報告
(参加者62人)
10月29日(日)
10:30 0〜14:00
○大谷支部長コメント
城北支部では、ひとりでも多くの会員さんに参加してもらいたくて、地元の水上バス・アクアライナー号(中之島・大阪城40分周遊クルーズ)に乗り、イタリアンレストランでのランチを企画しました。 4歳から88歳までと幅広い層、家族ぐるみでの参加、コロナ禍前から教会へ来れていなかった方など、大勢の会員さんが参加してくださいました。なつかしい顔にあちこちで笑顔の会話が弾んで、とっても楽しかった!の大合唱でした。一駅の移動がありましたが、足の弱い人にあわせたり、自主的に交通誘導をしてくれる壮年さんなど、皆で助け合いながらの移動となり有り難かったです。
これを機に、支部の皆さんが仲よく励まし合って元気に精進できますよう願います。
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東教会長のことば(11月15日号)
大阪教会のみなさま (*^^*)“ごきげんよう”
開祖さま誕生会をお迎え致しました。
そして、前回もお話ししました、本会に久遠のご本仏様が勧請された日でもあります。ひととき、ご法に出会えたことに報恩感謝を込めて、仏教徒としての自分を振り返ってみる機会にしてはいかがでしょうか。
そのような思いで、お経典の最初の『十功徳品第三』を拝読すると、仏さまの教えを学び、実践すると沢山の功徳がいただけることに有難い思いが湧き起ります。
「諸(もろもろ)の慳貪の者には布施の心を起こさしめ…」
「瞋恚盛んなる者には忍辱の心を起こさしめ…」
「愚痴多き者には、智慧の心を起こさしめ…」
これら「貪瞋痴」を滅するとは、「三毒」を消し去ることではなくて、コントロールできるようになることです、とご法話で学びました。それは、仏さまの教えを学び、実践する功徳によって、既に心の中に宿している「仏さまと同じ心」が湧き出すことだとも教えていただきます。なんと有難いことなのでしょうか。いま一度、仏教徒である自分の有難さを振り返り、今日この日に、心の垢を削ぎ落として新たな気持ちで元気に精進してまいりましょう。 合掌
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ご覧いただきありがとうございました。
次回で、最終稿になります。書き始めた頃が新型コロナウイルス感染の初期と重なったため、皆様への励ましを込めた内容を書こうと思い定めました。しかも当初は5日ごとに更新(*^^*)。読み返しますと、今だから言えることかもしれませんが、何か鬼気迫る思いだったなあと感じます。そんな一方的な思いを込めたものを、長らくご辛抱いただいてご覧いただきました。
本当にありがとうございました。最終回は11月25日に更新です。
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☆大阪教会60周年前夜祭☆
北支部・淀川支部共催
枝豆収穫祭実施報告
宝塚地区武田尾
(参加人数:64人)
10月22日(日)
10:30〜14:30
○桑本支部長コメント
来年の教会60周年に向けての前夜祭として、今年淀川支部から3地区が北支部に移動になった契機に、両支部合同で野外レクリエーションを企画しました。当日は雲一つない天候に恵まれ、北支部宝塚地区呉屋主任宅のガレージ及び庭を会場に開催しました。参加者は山ほどの見たこともない枝豆の束に、びっくりしワイワイとコミュニケーションを取りながら、コロナ禍の4年間我慢してきた心がはじけました。大量の枝豆を収穫でき、大自然の中で笑顔が絶えない楽しい一日を過ごすことが出来ました。枝豆のお土産を手に感謝で帰宅しました。
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11月の東教会長あいさつ
大阪教会のみなさま (*^^*)“ ごきげんよう”
今月は開祖さま誕生会、久遠のご本仏様が勧請された月を迎えます。ご法に出会えたことに報恩感謝を込めて、本年最後の万燈布教をしっかり頑張りましょう。
今年、会長先生はコロナ禍を経た私たちに、「元気に、精進を」と心身が健康になるよう応援をくださってきました。なかでも、9月からは<人間をそこない、社会を乱す三つの心の誤り>として仏さまが説かれた「貪瞋痴」を『佼成』ご法話で取り上げてくださいました。11月号は三つ目で「愚痴はほどほどに」です。
では、愚痴とはそもそも何でしょうか。仏教で説かれる愚痴とはグチグチと単に「文句をいう」ことではなく「愚かなこと」です。目先のことしか考えられず、本能的にしか行動できず、周囲に迷惑をかけてしまうことを言います。ご法話では、知恵や知性が病にかかっている状態と表現されていて、私自身も自分の胸に手を立ててみると日々当てはまるなぁと思うことが多く、なんとも愚かしくて避けたい行動だと反省しきりです。
11月号には、その特効薬も紹介されています。それは「感謝」です。私たちは<持ちつ持たれつの中で生かされて、生きて>います。ですから、自分の思いだけ優先して人に迷惑をかけてしまうという行為は本当に「愚かしい」ことです。相手に対して謙虚でいよう……という心が大切です。
以前もご紹介した通り、「貪瞋痴」を滅するとは、「三毒」を消し去ることではなくて、抑えたり、コントロールできるようになることです。お経文には「愚痴多き者には、智慧の心を起こさしめ…」とあるのは、仏さまの教えを学び、実践する功徳によって愚痴を抑える心が湧き出すという意味です。いま一度、9月号「欲張りは煩いのもと」、10月号「心も体も傷つける怒り」のご法話を読み直して、心の垢を削ぎ落として、新たな気持ちで元気に精進してまいりましょう。
今月もどうぞよろしくお願い申し上げます。 合掌
※60周年マーク、どうぞご自由にお使いください。
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会長法話
愚痴はほどほどに
庭野日鑛 立正佼成会会長
「知」が「病む」と「痴」になる
今年の夏は災害級の暑さといわれましたが、そうでなくても、夏には口を開けば「暑い、暑い」と文句をいい、冬になると寒さをぼやきがちな私たちです。一般的に、このような天地自然のありようや過去のできごとなど、「いっても仕方のないことをいって嘆く」ことを「愚痴をこぼす」といいます。みなさんは、「いっても仕方のないことをいう」と聞いて、どのようなことに思い当たるでしょうか。
日ごろの愚痴の数々とともに、私はこの言葉の、とくに「痴」の文字の組みあわせがおもしろいと思っています。ものごとを理解し判断する能力としての知性、それを支える知識や知恵、そうした「知」が「疒」(やまいだれ)に囲まれた状態です。つま「知」が「病」にかかっているから「愚痴をこぼす」と受けとれるのです。
ところで、人間には、ものごとを考えて行動できる知性が具わっているといわれます。理学博士の佐治晴夫さんは、人間は宇宙にある水素や炭素などと同じ物質の素からできているとしながらも、モノとしての物資ではなく、「自分で考え、行動し、相手と気持ちを分かち合って、助け合いながら生きている、不思議な存在」(『14歳のための時間論』春秋社)が人間だといいます。それは、人間に「未来のことや他者のことを、想像したり、推測したりできる能力」=心があるからだというのです。
しかし私たちは、その同じ心で自己中心の欲望や怒りをつのらせ、自他を苦しめる愚を繰り返します。心が、愚痴の病に冒されるのです。では、自分勝手な欲望や怒りが暴走しないようにするには、どうすればいいのでしょう。愚痴の病を癒すには、何が大切なのでしょうか。
愚痴を聴かせてもらう
先の佐治晴夫さんの言葉を思い出してみてください。せっかく他者と協力したり人を思いやったり、未来を想像し、推測できる能力を具えている私たちなのですから、それを発揮すればいいのです。わがままな心が出そうになったら、ものごとを多面的に見たり、他者の心中に思いをめぐらせたりする。あるいは、「愚痴の病には縁起観を教える」と涅槃経にあるように、自分があらゆるものに生かされていることを知り、そのイメ−ジをふくらませてみる。そうして少しでも感謝の生活ができれば、愚痴はおのずから減ってくるはずです。
縁起ということでいえば、たとえば家庭において、親がいつも不平不満や人の悪口をいっていると、子どももそれに影響されて何かにつけて文句が多くなるという研究結果があるそうです。周囲の人の愚痴を呼び起こす縁になるのか、智慧が目ざめる縁になるのか。私たちの心のあり方一つで、それもまた変わるのです。
ただ、だからといって愚痴をいっさい口にしてはならないとなると、それもまた窮屈です。欲や怒りにふり回されてはいけませんが、やるせない気持ちで吐く愚痴や弱音は、ときに必要なのかもしれません。それが、やがて「いっても仕方がないことにとらわれるのはやめよう」と自ら気づき、考え、新たな気持ちで前を向く出発点になることもあるのです。
だとすると、人さまの愚痴を聞かせていただく受け皿のような私たちであることも大切だと思うのです。いつも愚痴を聞かされるのはたまらないという人もいそうですが、思いやりをもって、相手のつらい気持ちを聴ききる、弱音を吐いてもらう。そうして人生の突破口となる「智慧の心」をいっしょにさぐるなかに、お互いの心の健康と元気と、人間的成長があるのです。
◆「佼成」11月号 会長先生のご法話はこちらで視聴できます
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聖壇開帳時間:午前9時から午後1時
]]>☆大阪教会60周年前夜祭☆
淀川支部社会福祉担当主催
フリーマーケット実施報告
福島区民祭りに参加出店 (実行委員11人)
令和5年10月7日(土) 10:00〜15:00
○藤井支部長コメント
当日は絶好の天気に恵まれ、会員の皆さんの真心込めた手作り品(小袋・財布・スカーフ)や持ち寄った日用品(コップ・ハンカチ・ポーチ)、衣料品(Tシャツ)等を出品しました。接客をしながら、品物がどんどんはけていくのは気持ち良かったです‼ 買い求めに来てくださった教会の皆さんや地元の方々に感謝申し上げます。区民祭りに参加できてありがたかったです、大阪市民のパワーの一端も感じる事が出来ました。尚、売上金は福島区社会福祉協議会へ寄付致します。
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10月の東教会長あいさつ
大阪教会のみなさま (*^^*)“ごきげんよう”
開祖さまご入寂の月を迎えました。
開祖さまは、いつも「信仰即生活」を大切にされました。「信仰即生活」とは、生涯をかけて仏さまの教えを学び、生活の中で実践することです。家庭はもちろんのこと、学校や職場、電車の中も買い物の途中でも、食事に出かけたレストランでも居酒屋でもです。また、会長先生は、「信仰即生活」が本会の一番の特色だと示されています。その理由を「『真理(真実の道理)・仏法』を学んだら、それに照らしてものごとを見たり考えたりするという、『智慧』に根ざした生活を送ることが、『仏の教えを信じる』こと」であるとご法話くださっています。つまり、仏さまの教えを素直に学び、実践することが“信じる”ことなのです。
では、生活のなかでどう生かせばいいのでしょうか。開祖さまは、「ただやみくもに信ずるというのではなく、真理にめざめることが大切」で、<貪欲・瞋恚・愚痴の三毒を抑えられるようになる>を生活実践の基本にしてほしい強く言い残されています。なぜならならば、「仏教では、この三つの心の誤りが人間をそこない、社会を乱す元凶であるから」と時に厳しいご法話をされて、私たちに精進の要諦を示されています。
佼成10月号のご法話は、『心も身体も傷つける「怒り」』です。まさしく三毒がテーマで、怒り、すなわち<瞋恚>は人間関係において不和の最大の原因と言われます。一年を感謝で締めくくるためにも、今から“信じることとは何か”“信行の基本”をしっかりと意識して精進してまいりましょう。“人さまを幸せにする”万燈布教も再開です。
今月もどうぞよろしくお願いいたします。 合掌
※10月15日、教会からのご命日ライブ配信はございません。また、教会では午前10時からビデオレター10月号をご覧いただく予定です。よろしくお願い申し上げます。
※60周年マーク、どうぞご自由にお使いください。
]]>会長法話
心も体も傷つける「怒り」
庭野日鑛 立正佼成会会長
怒りをどう抑えるか
貪欲・瞋恚・愚痴。仏教で人の心を毒する煩悩とされるこの三つは、心だけではなく体の状態にも影響を与える毒といわれます。ことに「瞋恚=怒りや憎しみ、恨みの感情」が肉体に与える悪影響は、科学的にも証明されています。
怒ると、自律神経のバランスが乱れて心拍数や血圧が上がり、血流の悪化を招いて不整脈や心筋梗塞、脳梗塞など重大な病気につながる可能性が高いといわれます。怒りっぽい人は、そうした病気に罹るリスクが大きいということです。アメリカ先住民のホピ族には、「怒りは自分に盛る毒」という言い伝えがあるそうですが、怒りの感情が自身を害することを、この言葉は端的に示しています。
「瞋恚」の正体は、自分の思いどおりにならないとか、人に軽んじられたといっては怒ったり、人を恨んだりする「小我にもとづく自己中心の怒り」で、釈尊いわく、それは「猛火よりも甚だし」く自他の身心を傷つけるのです。
ただ、「公憤」という言葉があるように、怒りには国や社会を思う憤りもあって、ときに多くの人の役に立つ行動を起こす動機にもなります。
ですから、怒りの感情をなくそうとするのではなくて、その感情をいかにコントロ−ルするかが大事になります。
人が怒りを覚えると、それを鎮める脳の働きが機能するまでに数秒かかるそうです。また、怒りのピ−クは「イラッ」としてから六秒後ともいわれ、その間に別の何かに心を移せば怒りが抑制できるといわれます。これまで、腹がたったときにはゆっくりと深呼吸をして「ひと呼吸おく」とか、真言のかたちを借りた「おんにこにこ はらたつまいぞや そはか」という言葉を唱えるなど、怒りを鎮める方法をいくつかご紹介してきましたが、いずれもちょうど六秒ほどの所作になります。こうした簡にして要を得た怒りの抑制法を心得て、毎日を笑顔ですごしたいものです。
損して「徳」を得る
法華経の観世音菩薩普門品に「若し瞋恚多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬せば、便ち瞋を離るることを得ん」とあるのも、怒りを覚えた瞬間、観音さまを念ずることで自分のなかの仏と向きあい、仏と一体の自分を自覚すれば、怒りもおのずと鎮まってくるということでしょう。
それでも、ひとたび怒りに火がついたとき、その怒りの猛火をいかにして鎮めるのか。怒りを覚える現象をどう受けとめれば、損得勘定やプライドへのとらわれから生じる怒りから離れられ、自他の身心を傷つけずにすむのか――。
易経に「山澤損」という教えがあります。だれしも、ふつう「損をする」のはいやなものですが、ここでいう「損」は、へりくだるとか差しだすという意味で、人を思いやって譲ることに満足を覚えることをさします。「山澤」とは、山裾を刻む沢のことです。沢は、それが深ければ深いほど、山容を高く美しく見せます。同じように、自分が損をするように思えることも怒りや欲をおさえて受け入れ、身を削って人の役に立つならば、結果としてその人の「徳」が高まると教えるものです。すなわち、そういう「損」は、めぐりめぐって自分に喜びや心の安定をもたらすのです。同じ損得勘定で動くなら、目を血走らせて欲得に走るよりも、人に譲る気持ちで損を引き受けるほうが、身心両面においてよほど健康的で、つまりは「得」だということです。
以前、人との争いにおいて「負けることができる」のが、平和を願う宗教の智慧だと述べたことがあります。自他ともにおだやかに生きる智慧として、ときには「損をする」ことも、怒りに冒されない一つの心の備えといえそうです。
先のホピ族の名の意味は「平和の民」だといいます。そのような生き方を、すべての人が願っているはずです。
◆「佼成」10月号 会長先生のご法話はこちらで視聴できます
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聖壇開帳時間:午前9時から午後1時
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東教会長のことば(9月15日号)
大阪教会のみなさま (*^^*)“ごきげんよう”
9月10日、脇祖さま報恩会の“報恩”にちなんで「一日一日、新たに生かされていることに恩を感じていくことが大事」とご法話がとても強く印象に残りました。脇祖さまは「信仰即生活」の範を示され続けたと伝えられますが、それは、私たちが日々の生活のなかで、貪瞋痴の三毒に苦しまないように<足ることをよろこべる幸せ>を説き続けられたことを意味します。
佼成9月号で少欲知足を変じて「小欲喜足」と示されたのが、そのひとつの心境でないでしょうか。何に対しても<十分にいただいたね、有難かったね>と足ることを素直に喜べたなら、「一日一日、新たに生かされている」という心境につながっていくのではないかと感じました。
あと一週間もすれば、大阪教会では秋季彼岸会を迎えます。お中日を挟んだ七日間はいわば“六波羅蜜”の一週間で、まさしく六日間に「信仰即生活」を実践して、その功徳をご先祖さまに回向することがテーマです。
すなわち、日常のなかで、足ることをよろこべるように心を調え(持戒、忍辱)、周りに喜んで施しをして(布施)、こうした気持ちを平常心にするよう務める(禅定、精進)―こうした信行は必ず仏さまの教え、例えば少欲知足という智慧を悟ることにつながるのではないでしょうか。その功徳を、ご先祖さまに回向して喜んでいただく(供養)のです。きっとこれが一番の“報恩”になると思います。
私たちのいただいている信仰は、教えの実践を大切にします。来月には開祖さま入寂会、11月はご本尊を勧請して下さった15日を迎えます。ますます“報恩”の心に磨きをかけて、教えの実践と伝道に励みたいと思います。 合掌
]]>9月の東教会長あいさつ
大阪教会のみなさま (*^^*)“ ごきげんよう”
厳しい残暑が続いていますが、お元気でお過ごしでしょうか。今月は、脇祖さま報恩会と秋の彼岸会をお迎えします。
脇祖さまは、開祖さまに導かれて法華経と出遇われ、本会創立から20年間、戦前戦後の苦悩に喘ぐ会員一人ひとりに慈愛をもって接し、慈母として慕われました。昭和32年(1957年)9月10日、67歳で遷化されました。66年前のこの日、沿道には全国から25万人の信者さんがお別れに駆け付けたと言われます。
脇祖さまは、教えの証明役として常住坐臥に「信仰即生活」の範を示されました。とくに困られた人やサンガに熱心に施されて、自分のものをほとんど差し上げられてしまった程でした。また、料理や裁縫、編み物やお花の活け方など素朴な触れ合いの中で気持ちを通い合わせた、まさに手作りでサンガを育てられた方でもありました。こうした在りし日のお姿を偲びながら、ビデオレター9月号では後世の会員に残してくださった思いを少しでも感じでいただければと願っています。
佼成9月号のご法話「欲張りは煩いのもと」は、脇祖さまが「信仰即生活」の範として示されてきた仏さまの教え・智慧ではないかと思います。人として健康に生きていく最良の道が<足ることをよろこべる幸せ>を感じることだと、脇祖さまの思いをかみしめてくださっています。是非お読みください。
また、この仏さまの教え・智慧をもった生き方はご先祖さまがきっと一番喜んでくださるものと思います。秋の彼岸会は昨年に続き、教会からのインターネット中継になりますが、いまあることへの報恩感謝の心を込めてご参列ください。お待ちしています。 合掌
◆ビデオレター9月号はYouTubeにて配信中です。アドレスおよびDVD版は支部長さんよりご案内がございます。
◆1日、15日、秋季彼岸会のLIVE配信のアドレスも支部長さんよりご案内がございます。
※60周年マーク、どうぞご自由にお使いください。
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会長法話
欲ばりは煩いのもと
庭野日鑛 立正佼成会会長
貪りが招くわざわい
「天高く馬肥ゆ」といわれる秋は、食欲の秋ともいわれます。暑さがやわらぎ、食欲も増してなんでもおいしくいただけるのはありがたいことです。ただし、食べすぎて後悔することがないよう、ほどほどを忘れずにいたいものです。
食欲旺盛で、少し体重がふえたという悩みなら食事の量を控えることで解消しそうですが、釈尊は「いろいろな欲望を貪り求めると、諸々の煩悩が彼に打ち勝ち、危ない災難が彼を踏みにじる」という表現で、貪るほどの欲深さがいかに身心にダメ−ジを与えるかを教えてくださっています。それにしても、欲がすぎると「危ない災難」に踏みにじられるとは、いささかおだやかではりません。
このスッタニパ−タの一節によれば、「田畑や宅地、婦女や親族その他いろいろな欲望を貪り求めると」とありますから、金銭や財産に対する過剰な欲とか愛欲へのとらわれなどが自他の妬みや怒りや憎しみを生み、それがもとでトラブルという災難が降りかかってくるということでしょう。あるいは、「あの人は欲ばりだから」と疎まれたりするストレスが、体調にも影響するという災難も考えられます。
釈尊は、「貪欲の生じた人が、もしも欲望を果たすことができなくなるならば、彼は矢に射られたように悩み苦しむ」ともいわれます。当時、釈尊は実際にそうして人が苦しむ様子を見聞きされたのでしょうし、欲ばるあまり周囲の人とけんかが絶えず、ときには暴力によって傷つけられるという災難に見舞われた人がいたかもしれません。欲望を貪り求める人には、健康的な人生とはほど遠い苦しみが待ち受けている、ということを釈尊は肌身で感じられたのです。
社会的動物といわれる人間ですが、必要以上に貪らない他の動物とは違って、私たちはときに欲望に歯止めがかからなくなります。それゆえ、利他の心を忘れずに欲望をほどほどに抑える日ごろの精進が欠かせないのです。
足ることを喜べる幸せ
ただ、私たち人間の欲そのものが悪いわけではありません。釈尊は「すべての人を救いたい」という大欲をいだかれ、慈悲心と利他の思いに根ざすその大欲を追い求めて、ついにだれもが幸せになれる真理・法を悟られました。もちろん、釈尊と同じ欲は私たちの命にも組みこまれていて、それが人類の発展や向上の源にもなってきたのです。
しかし、欲も制御がきかなくなると「煩悩」に変わり、文字どおり煩い悩むことになります。思うとおりにならなくて苦しみ、自分の満足を得るために見境がなくなって人間関係をそこなうなど、さらなる苦に苛まれるのです。そうならないよう、仏教では「少欲知足」—――欲を抑えて足ることを知る—―の大切を教えています。これが実践できれば、欲望の暴走による身心のわずらいも遠ざけられるのでしょうが、わかっていてもそれができない私たちです。
そこでもう一つ、「少欲」の「少」を「小」の字に変えた「小欲知足」という表現をご紹介します。印象はほとんど変わりませんが、パーリ語(インドの古い言葉)の「小欲」と「知足」にあたる言葉の意味にしたがうと、「小欲知足」とは「必要十分な量であることに喜んでいる」という意味あいになるようです。三蔵法師の名で知られる玄奘は、「知足」の意味するところを深くとらえて「喜足」と言い換え、足ることが喜びと伝えています。必要十分な欲が満たされることこそが喜びと知ると、足ることの喜びを味わいたくて、自然に欲が抑えられそうです。しかも、足ることを知りなさいと諭されるよりも受け入れやすく、気持ちを楽にして欲のコントロ−ルができるのではないでしょうか。
そして何よりも、必要十分な量で喜べることほど健康的で幸せな生き方はないと、私は思うのです。
◆「佼成」9月号 会長先生のご法話はこちらで視聴できます
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8月の東教会長あいさつ
大阪教会のみなさま (*^^*)“ ごきげんよう”
「八月や六日九日十五日」
8月号の佼成・ご法話でご紹介いただいた一句です。そのなかで「戦争に対する悔恨や憂愁(ゆうしゅう)、亡くなった方々への鎮魂の思いは、戦後七十八年たってもなお強く胸に迫ります」と、この句になぞらえて哀悼の意を尽くされています。
私たちは、毎日のご供養でウクライナ情勢の平和的な解決をご一緒に祈念させていただいていますが、昨今では、核兵器の使用まで噂される状態までエスカレートしています。こうしたなかで何を考え、どう行動していけばいいのでしょう?
ご法話「安心していきるために」には、「すべての国が滅びることのない手だてをさぐり、実現に努める」という智慧と、「地球に住むすべての人がほんとうの意味で安心して暮らせる世界をと、心の底から願わずにいられません」という強い願いをもって、信仰を持つ者が平和に向けて役割を果たしていくことが大事だと語られています。
開祖さまは、国連が開催した軍縮特別総会で三度、「戦争のために危険を冒すよりも、平和のために危険を冒すべきである」と宗教者を代表して演説をされました。また全国で3700万人の署名を集めた「核兵器廃絶署名運動」の先頭に立たれたり、国連の軍縮キャンペーンに100万ドルの寄付をされたり、常に平和を希求する姿を教えてくださってきました。
会長先生は「私たちのような平凡な人間が、戦争をくい止めるのは現実的には困難」ではあるが、個々人の信仰による心の向上によって、地域、社会、国家に何かしら役立てることはできると訴えています。つまり、私たちが<自ら信じて、人をして信ぜしむ>というように、自分の心田を耕す信仰者をいかに産み育てるか。これが私たちの精進のテーマではないでしょうか。
まだまだ酷暑が続きます。この願いをもって今月も精進致しましょう。 合掌
◆ビデオレター8月号はYouTubeにて配信中です。アドレスおよびDVD版は支部長さんよりご案内がございます。
※60周年マーク、どうぞご自由にお使いください。
※8月15日の掲載はございませんのでよろしくお願いいたします。是非ビデオレター8月号をご覧ください。
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会長法話
安心して生きるために
庭野日鑛 立正佼成会会長
すべての国が滅びない手だてを
健康とは何かについて、世界保健機関では「病気でないとか、弱っていないということではなく、 肉体的にも精神的にも社会的にも、すべてが満たされた状態にあること」と示しています。これは、幸福の定義とも重なるものです。
しかし、ロシアによるウクライナへの侵攻、シリアやス−ダン、ミャンマ−などでつづく内戦、各地に存在する難民と人権の問題、日本においては周辺諸国との諸問題など、世界の現状を見るかぎり、ほんとうの意味で健康で幸福な暮らしをしている人はいないに等しいといわざるを得ません。世界政治の現実は軍事力に支配されていて、各国が軍備を充実させることで牽制しあい、それによって武力衝突を抑えている状態ですから、たとえ一見、平和な国や地域でも、つねに軍事的緊張にさらされているといえるのです。
ただ、それはいまにはじまったことではないのです。開祖さまは、一九八二年に「現在の世界は、いつ第三次大戦が起こるかもしれないという切迫した情勢にあります」と警鐘を鳴らし、「すべての軍備は恐怖心にもとづくものです。他国に侵略されはしないかという疑惑と恐怖が軍備を強化させるのです」といって、当時行なった核兵器廃絶と軍縮に向けた署名運動の意義を訴えています。
とはいえ、自分の国が他国から攻められ、滅ぼされてしまう—―と、そのように考えるだけでも不安です。しかも、国を守ることは、自分の命を守り、家族を守ろうとする心情の延長線上にありますから、抵抗する武力をたのみとするのは人間の本能ともいえましょう。ただし、他国からの侵略に怯え、敵視や非難する心は、決して健全とはいえません。その意味で、私たちが真に健康で元気に暮らすには、軍備の拡張などによらないかたちで自分の国を守るようにすることが必要で、それはつまり、すべての国が滅びることのない手だてをさぐり、実現に努めるということです。
自分を愛するように
「八月や六日九日十五日」という句があります。非道な原爆投下とその惨禍、そして日本の敗戦を詠みこんだこの句ににじむ戦争に対する悔恨や憂愁、亡くなった方々への鎮魂の思いは、戦後七十八年たってなお強く胸に迫ります。それゆえ、地球に住むすべての人がほんとうの意味で安心して暮らせる世界をと、心の底から願わずにいられません。
開祖さまは、「戦争や紛争は、つまり利己心から起こるものであります。差別心から起こるものであります。憎悪と嫉妬から起こるものであります。このような醜い心をおさえるか、あるいは薄れさせるかしないかぎり、人間世界から争いというものが消え去ることはない」と述べて、「宗教によって人間の心を改めることこそが平和への大直道」と明言しています。仏教では慈悲、キリスト教では愛をもっとも大切にしますが、他の宗教にも同様の教えがあるはずです。調和につながるそうした教えに基づいて、一人ひとりがかけがえのない自らの命を愛し、同じように他を愛し、尊ぶ。そういう世界を築くことが、宗教者の使命であると思います。そのための連帯と協働をめざして、世界宗教者平和会議が生まれたのです。
私たちのような平凡な人間が、戦争をくい止めるのは現実的には困難なことです。しかし、信仰による心の向上を、社会・国家がよりよい方向に進むよう役立てることはできます。慈悲の心で自他を見ること、その心を押し広げて、さらに地域社会も国も、みな自分と一体の大事な存在であるということを人さまに伝えること。信仰のあるなしにかかわらず、そうして自国はもちろん世界の国ぐにや人びとを愛し、思いやる仲間が多くなることが、だれもが安心して生きられる世界の実現につながるのです。
◆「佼成」8月号 会長先生のご法話はこちらで視聴できます
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聖壇開帳時間:午前9時から午後1時
]]>東教会長のことば(7月15日号)
大阪教会のみなさま (*^^*)“ごきげんよう”
今日と明日の二日間、大阪の法要を開催させていただきます。
昨年に引き続き、本年の盂蘭盆会もコロナ感染の予防を徹底するために、支部から代表の方々にお越しいただきます。インターネット中継でご参列くださる皆様には大変ご迷惑とご不便をおかけしますが、どうぞよろしくお願い申し上げます。
皆様からお預かりしました新盆の方々のお戒名、ご先祖のお戒名を、代表の皆さまとご一緒に真心こめてご供養させていただきます。また、ご自宅や地域でお集まりになっておられる皆様も、過去帳をもとに追善回向のご供養をさせていただきましょう。
盂蘭盆会は、ご先祖の霊位に対して真心から慰霊の誠を捧げるのが習わしですが、一言で申しますと「すべてのおかげさま」への感謝を大事にする機会と言えます。それは、仏さまの教えによると、世の中のあらゆるものの<おかげさま>がなければ、私たちは存在したり・生きたりできないからで、それ故にあらゆるものによって生かされていると自覚することが最も大切なことです。
今日と明日は、そうした「おかげ」のなかで特別な、自分自身の命の大元である父や母、おじいちゃん、おばあちゃん、そしてご先祖様に感謝を捧げ、それを機縁にして、「すべてのおかげさま」を思い起こして<敬いと感謝の心>を捧げましょう。
きっと御宝前のご先祖様が大喜びで、こちらを見ているかも知れません(*^^*) 合掌
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身心を養う「食」とは
庭野日鑛 立正佼成会会長
四つの栄養
私たちは、「生きるため」に食事をとります。そうして摂取した栄養によって、身心のはたらきを保っています。
いっぽうで、度を越して食を貪る人に対して、釈尊は「大食らいをして眠りを好み、転げまわって寝て、まどろんでいる愚かな人は、餌を食べて肥る大きな豚のよう」(法句経)だと厳しい指摘をされています。釈尊は、「食を節して過食をしない」とも説かれましたが、仏教では、ほどほどの量の食事を感謝とともにいただくことを大切にしています。その感謝は、あらゆるご縁によってもたらされた食材を無駄にしない工夫や命を尊ぶ心につながるものです。
さらに仏教で特徴的なのは、身心を健康に保つ「栄養」を、口からとり入れる飲食物だけとは見ていない点です。
では、仏教でいう飲食物以外の「栄養」とは何か――。
その一つは、眼耳鼻舌身意という感覚器官をとおして、体や心に受ける情報という栄養です。これは、とり方によって、私たちの欲や怒りの心を育てることもあれば、穏やかな心を育てる滋養にもなります。また、「あれがしたい」とか「こうありたい」と考える意思や意欲も、心の栄養といわれます。前向きな意思から積極的な行動が生まれるように、どのような意思や意欲をもつかで、心も行為も変わるのです。そしていま一つは、経験や習慣によって根づいた意識や、先祖から受け継いできた知識等にもとづく意識で、いずれも「心を養う栄養」とされます。
飲食物を含むこれら四つを、仏教では「四食」といいます。食物が体をつくり、種々の情報や身心で受けとめる感覚などが心を育み、私たちは存在しているという見方です。
禅宗などで食前に唱える「五観の偈」の最後に、「成道のためのゆえに、いまこの食を受く」とあります。ここでいう「食」とは、もちろん健康な体を保つための食べ物や飲み物のことですが、「四食」に照らして解釈すると、つねに人を思いやることのできる人間になるために、心に良質な栄養をとり入れることが大切ということにほかなりません。
何ごともバランスよく
身の健康を気遣って私たちが体に悪いものを食べないのと同じように、心の健康のために何を「食べ」、何を「食べない」ことが大切だとみなさんは思われるでしょうか。日ごろ、何を見聞きし、話すと心が乱れ、どのような人や言葉や光景に出会うと気持ちが安らぐかを考えてみましょう。
「生長の家」の創始者である谷口雅春師は、「食事は自己に宿る神に供へ物を献ずる最も厳粛なる儀式である」と記されていますが、仏教的に受けとめれば、自他の仏性を開くような「食」、つまり感謝や思いやりにあふれる言葉と、人に寄りそうあたたかな行ないが、人としてよりよく生きるための「心の栄養」になるということです。
ただ現実には、怒りや憎しみの心を肥らせる言葉を受けたり、発したりすることもあれば、欲をつのらせる情報に浮き立つこともあるでしょう。ですから、過剰な欲や自分本位のものの見方といった毒がなるべく身心に入りこまないように、実際の食事同様、何ごとも「好き嫌いをいわず、適度に、バランスよく」を心がけることが大切なのです。
「ただ生きる」のではなく「健康で幸せに生きる」ことは、人間に与えられた一つの特権です。その本領を発揮するという意味で、釈尊は「真実(真理を説くこと)は、諸々の飲料のうちですぐれて甘美なるものである。明らかな智慧によって生きる人を、最上の生活と呼ぶ」と説かれました。仏の教えを学び、人にも伝え、あらゆるおかげさまに感謝して生きるなかに、健康で幸せな人生があるということです。それは、たとえば食事の際に「いただきます」と手をあわせる一瞬に育まれるといえるのです。
◆「佼成」7月号 会長先生のご法話はこちらで視聴できます
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東教会長のことば(6月15日号)
大阪教会のみなさま (*^^*) “ごきげんよう”
大阪天神祭が4年ぶりに完全復活する、という嬉しいニュースが飛び込んできました。天神祭といえば「大阪の元気」と評されます。復活にあたって寺井宮司さまは「我々の誇り。未来に継承する」と力強く語られています。千年を超える伝統の神事がいまに継がれてきたものは、大阪人の「土性骨」と「心意気」であると天満宮の歴史が綴っています。
これまで万灯行進で参加させていただいていましたが、いつか再び歴史ある神事に参加できるように、私たちも鍛錬を始めなければなりません。まとい、万灯、笛、鉦、太鼓に、そして私たちの心にも灯をともしていきましょう。
さて、大阪教会は天神祭の復活と重なりますが、来る7月をもって教会を再始動したいと思います。
ご縁となる多くの方々が“仏さま”とつながっていることに感謝、感激してもらえるように、そして、生き甲斐のある人生を楽しく送っていただけるように、み教えを地域にいっぱい伝えしてまいりましょう。
詳しいあり方につきましては、支部長さんにお聞きください。
7月にビデオレター7月号やHPでもお伝えしてまいります。
よろしくお願い申し上げます。 合掌
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6月の東教会長あいさつ
大阪教会のみなさま (*^^*)“ごきげんよう
六月を迎えました。早いもので一年を折り返す時期を迎えます。教会のスローガンを是非ご確認ください。「元気で生き生き❣❣」です。
4年余りの間、新型コロナの話を毎日聞いているうちに、前向きに生きる意欲や気持ちが萎んでしまってはいないでしょうか。そんな私たちを心配して下さった会長先生から、年初に<元気が出るように>とご法話を頂戴しました。そこからいただいた一文です。
年頭ご法話を拝読して、私は<身体の中には宇宙のエネルギーが充満していて、常に元気で、健やかなのだ。大自然の徳をいただいて健やかなのが、私の本体だ>と感じて意欲がモリモリと湧いてきました。本年は「人と積極的にご縁となることで成長する、幸せになる」年回りですから、人さまと善き縁を結んでより一層「元気で精進」と意欲を持ちたいものです。
さて、佼成6月号では、宇宙のエネルギーたる“仏さま”とのつながりを味わうご法話をいただきました。開祖さまは“仏さま”を宇宙の大生命と名付けられ、真理のはたらきとしてご指導くださいました。ご法話では、はたらきのひとつとしての奇跡の惑星・地球の存在に触れていただき、「つながりのなかで、私たちは生かされている」ことを強く感じます。
このように感じる心が信仰心、豊かな感性であると記されています。信仰心や感性が高まると自ずとこれから「何を為すべきか。何を為すべきではないのか」を意識しますが、ご法話には、信仰者としての具体的なあり方が記されています。是非手に取られてじっくりお読みください。そして精進の糧にしていただきたいと思います。
いよいよ“人さまと善き縁を結ぶ下半期”に向けてスタートです。今月もよろしくお願い申し上げます。 合掌
※5月11日、「第40回庭野平和賞」がインドの平和活動家・ラジャールP.V.氏に贈呈されました。貧しい人々の尊厳と権利を取り戻すために国内で大規模な徒歩行進を先導されてきました。ガンジー思想を根底に置き、先住民や不可触民を含めた農村部の住民の権利、環境保護、土地改革などを訴えて、救済と自立を成し遂げてこられました。(詳細は「佼成新聞デジタル」https://shimbun.kosei-shuppan.co.jp/news/63138/をご覧ください)
◆ビデオレター6月号はYouTubeにて配信中です。アドレスおよびDVD版は支部長さんよりご案内がございます。
※60周年マーク、どうぞご自由にお使いください。
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季節の風物に心を寄せて
庭野日鑛 立正佼成会会長
自然にふれて感性を磨く
大都会といわず地方の小都市といわず、私たちの暮らしは、つねに自然の営みとともにあります。私が十年ほどすごした新潟県の菅沼でも、冬になれば雪が降り、夏が近づくと田植えをしてといった具合に、暮らしはいつも自然とともにあって、私も子どもながらに農作業を手伝い、鎮守さまでの盆踊りやお祭などの行事を楽しみにしていました。
どれだけ時代が移っても、四季折々の自然や風物はつねに生活と密接に結びついているのですが、それがいかに貴重なことかを私たちは忘れがちです。季節の訪れを告げる草花や昆虫の生命力に目を見張り、大自然の織り成す美しさに感嘆するようなことも、大都会では少なくなります。
詩人のワ−ズワ−スは、「虹」という詩のなかで、
「私の心は躍る、大空にかかる/虹の美しさを見たときに。/子どものころもそうだった、/大人となったいまもそうなのだ、/そして、これから年を重ねてもそうでありたい/そうでなければ、この世に生きている意味はない!」
と詠っています。なぜ、ワーズワ−スは自然への賛嘆や畏敬を忘れたら生きている意味がないとまでいうのか――この問いに答えるかのように、生物学者のレイチェル・カーソンは自著にこう記しています。
「地球の美しさと神秘を感じとれる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう。たとえ生活のなかで苦しみや心配ごとにであったとしても、かならずや、内面的な満足感と、生きていることへの新たなよろこびへ通ずる小道を見つけだすことができると信じます。/地球の美しさについて深く思いをめぐらせる人は、生命の終わりの瞬間まで、生き生きとした精神力をたもちつづけることができるでしょう」(『センス・オブ・ワンダ−』上遠恵子訳/新潮社)
子どものころの素直な気持ちを忘れず、大自然の営みにふれて感動したり、その不思議に驚いたりする日常こそ、若さや元気をたもつ秘訣があると詩人は詠っているのです。
黙々と真理を実行する自然
また、レイチェル・カ−ソンの言葉は、美しいものや神秘的なものを見て「きれいだな」「不思議だな」と感動できる感性があれば、苦しみや悲しみさえ乗り越えることができると教えています。豊かな感性は、苦悩から救われる道をみつける柔軟な心のはたらきにも通じていて、そのことによって命尽きるまで生き生きとすごせるというのです。
考えてみれば、自然は何一つ文句をいわず、ただ黙々とあるべき姿を見せ、多くの命を生かしてこの世をあらしめています。つまり、大自然は真理を黙って実行しているということです。そして、私たちの体が新陳代謝を繰り返すのもまた、真理を実行する大自然の姿の一つといえます。そうした大自然の営み、すなわち真理のはたらきに気づくことで、心の安定と救いがもたらされるのかもしれません。
たとえば、地球の美しさにふれた感動が、地球という星が存在する奇跡のような確率や、そこに息づく命一つ一つの営みを思う心に結ばれるとします。そうすると、この星で大切なのは、他を攻め、争うことではなくて、お互いの命を讃えあうことだと、だれもが気づくのではないでしょうか。そのような自覚が、人の心を穏やかにするのです。
その意味でも、できれば感性豊かな幼い子どもと一緒に、星を見たり、足元の草花に目を向けたりしてみてはどうでしょうか。もちろん、自宅にいても季節の風物や自然の営みにふれることはできます。それは、自分の感性を磨くと同時に、これからの時代を生きる人と真理のはたらきを楽しみ、味わい、語りあうことです。心を育み、「人を植える」という未来に向けた大切な菩薩行でもあると思うのです。
◆「佼成」6月号 会長先生のご法話はこちらで視聴できます
]]>東教会長のことば(5月15日号)
大阪教会のみなさま (*^^*)“ごきげんよう”
5月8日にコロナ対策が一応の区切りを迎えました。
巷ではマスクを外すか否かで騒がしくなってきましたが、しばらくは「withコロナ」が続きます。一人ひとりが十分に健康管理をしていくことが大切だと思います。教会では予防対策を十分に取ってまいりますので、引き続き「みんなでみんなを守る」ことを合言葉に、マスク着用などの予防対策にご協力下さい。
私たちは、被爆地で初めて開催されるG7広島サミット(5月19日〜21日)を機会に、「核兵器禁止と世界の平和実現」が強いメッセージとして全世界に発信されますようにと祈らせていただいています。そのような中を、10日には<世界平和記念聖堂>で政治家や学者、平和活動家を迎えて諸宗教者が集う祈りとシンポジウムが開催されました。
この場所を皆さんはご存知ですか?
広島駅に程近い幟(のぼり)町にあるカトリック教会です。明治時代に和風の教会が建てられていましたが、昭和20年8月6日、原爆投下と共に焼失。ドイツ人・ラッサール司祭が被ばくしながらも奇跡的に助かり、その後に、多くの犠牲者を弔う共に恒久の平和を希求する基点を建設しようと力を尽くされました。
その尽力に衝き動かされて国内外から膨大な善意が集まり、昭和25年に着工されました。<骨は日本の土となるまで>という司祭の誓いが語り伝えられていますが、その尊い精神は記念聖堂の祭壇で平和を希求する人々を勇気づけてくださっているように思えました。
今月号のご法話―「自分を思いやる」は元気の源であるとして、真の意味は、自分自身にいただいた“かけがえのないいのち”を見つめることであり、同じように人を思いやることであると教えていただきます。
外国人でありながらも、私たち以上に日本を愛してくださった司祭。こうした機会に、是非とも私たち自身も“かけがえのない”平和に向けた<祈りと行動>を誓い合いたいと思います。
合掌
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5月の東教会長あいさつ
大阪教会のみなさま (*^^*)“ごきげんよう”
5月を迎えました。
自然がいよいよ勢いを増して、夏の始まりを告げるようになってきます。あらゆる生命が太陽の光を浴び、万物がすくすく成長していく季節です。私たちも、コロナ禍で縮こまりがちだった身体や心を、のびのび伸ばしていく時期です。令和5年の生き方は「人と積極的にご縁なることで自分が成長する、幸せになる」とお話しましたが、その生き方を天地が応援してくれる希少な年です。天地の応援を力に変えて、周りの大切な方々と共に元気に歩み出しましょう。
さて、今月号の佼成ご法話では、心が傷つきやすい現代を描写くださっています。コロナ禍を経た社会は自他を厳しく区別する風潮があり、インターネットでよく見られる誹謗や事実無根の中傷、いじめやハラスメントが頻発していて、直接間接を問わず心が傷つきがちです。そんな時代を生き生きすごしていくためには、どうすればよいのか。
ご法話では、「自分を思いやる」が大切だと説いてくださっています。<自分に厳しく>が美徳だった昔と比べると<自分を甘やかす>ようにも聞こえます。読み進みますと、真意は自分という存在をどのように感じているのか、であることが分かってきます。
先月号の「天上天下唯我独尊」に当てはめてみましょう。「我」とは私たち自身。つまり、私たちは“類のない仏のいのちと心を具(そな)えていて、自分の尊さに気づき、そして全てのものの尊さに気づいていく”という自他の存在を凝視する大切さに気づきます。そして、このことを尊く感じていくことが「自分を思いやる」ことであり、世相や風潮、偏った関りに惑わぬ「心」をつくっていくことだと思います。
ビデオレター5月号では、ひとつには「すべては自分」という生き方の実践として紹介しています。是非ご覧いただき、ご法話の意味をさらに深く学んでいきたいと思います。
大阪教会60周年まであと11カ月。お互いさまに元気で生き生きがテーマです。サンガの皆さまと共に精進してまいりたいと思います。今月もどうぞよろしくお願い申し上げます。 合掌
◆ビデオレター5月号はYouTubeにて配信中です。アドレスおよびDVD版は支部長さんよりご案内がございます。
大阪教会発足60周年ロゴマーク ※どうぞご自由にお使いください。
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会長法話
自分を思いやる
庭野日鑛 立正佼成会会長
心が傷つきやすい時代
洋の東西を問わず、人は昔から「自分に厳しく、人にやさしく」あることを美徳としてきたように思います。しかし、最近では「人にやさしく、自分にもやさしく」というあり方が必要だともいわれるようです。なぜなら、心に傷を負って苦しむ人が、以前よりずっとふえているからです。
インタ−ネットの世界で、匿名投稿によって人格を否定され、自死にまで追いこまれた事件などに象徴されるように、事実無根の中傷をくり返して人の心を傷つける人も少なくないのです。現代においては、心を守るために、むしろ自信過剰なくらいでちょうどいい、という学者もいます。それほど、心が傷つけられやすい時代だということです。
また一方では、幼児虐待の報道や、人を苦しめるイジメやハラスメントにまつわる問題もいっこうに減りません。それらが被害者一人ひとりの心に多くの傷を残し、その傷がもとで自虐的になる人や自己否定をする人がいるという現実もあります。そのような意味では、「自分にやさしくあること」が、いまほど必要なときはないかもしれません。
そういう時代の要請でしょうか、近年、たとえ失敗やトラブルが起きても、そのことで自分を責めないで、自分に思いやりをもって現象と向きあう――セルフ・コンパッションという考え方が注目されているようです。心の健康の向上に関する心理学の考えで、仏教に由来するともいわれます。自己の尊厳を大事にして、現象をありのまま受けとめるという仏教の基本が、心の健康を守るということです。
自分が元気になることで
自分を思いやるというのは、たとえば何か失敗をしたときでも、そのできごとを否定的に見ないで、「こういうことはだれにもあることなんだ」と大きな受けとめ方をしたり、「この経験は私の財産になる」と前向きにとらえたりして、一方的に自分を責めたり罰したりする感情に支配されないことです。ものごとの善し悪しを一概に判断する見方から離れると冷静に事象と向きあえますし、そこにあるのは悪いことばかりではないと気がつけば、心は楽になるはずです。
ただ、「自分を思いやる」という表現は自分を甘やかすことのようにも聞こえて、自己を律する仏道精進などとは正反対のあり方だと思う人がいるかもしれません。しかし、自分を思いやるというのは、つまるところ自己と冷静に向きあって唯一無二の自分と出会い、心の調和を保つことで、それは私たちの精進にも通じます。その意味でいうと、私たちは日々、心の健康法を実践しているともいえるのです。
ともあれ肝心なことは、自分を思いやることによって憂いが払われ、「私」が元気になることです。一人ひとりの心に憂いがないことが、家庭や社会を明るく元気にするポイントですし、自分にやさしい人ほど他者に思いやりをもって接することができるとの研究報告もあるようですから。「そういわれても、どうやって自分を元気にすればいいのか」と戸惑う人に、『トム・ソ−ヤーの冒険』の作者であるマーク・トウェインは、「自分を元気づけるいちばんいい方法は、だれか他の人を元気づけてあげることだ」と教えてくれています。思い悩んでいた人が、他者のつらい気持ちに寄り添っていたら、いつの間にか自分の悩みを忘れていたという話は本会でもよく聞きます。利他は自利に通じ、自利を得た人は利他の行ないをせずにはいられないのです。
そうして心が救われた人は、みんな元気になります。元気な人が多いのは、それだけ幸せな社会だといえますが、そのためにこそ、そして私たちのまわりに救いと魂の成長を求めている人がいればこそ、まず「自分」が明るく元気になって思いやりの輪を広げていくことが大切なのです。
◆「佼成」5月号 会長先生のご法話はこちらで視聴できます
]]>東教会長のことば(4月15日号)
大阪教会のみなさま (*^^*)“ごきげんよう”
ビデオレター4月号をご覧になってくださったご高齢の方々から、大阪教会発足当時の映像が懐かしすぎて涙が溢れました…などのお声を伺いました。インターネットの配信をどのようにご覧になったのかを伺うと、サンガの皆さまが「配信されたよ」と端末をもって自宅を訪問してくださったからとのこと。配信のたびにお声をかけてくださっていたとも伺いました。本当にありがとうございます。皆々様のご尽力で教えが伝播していきます。どうぞよろしくお願い申し上げます。
さて、式典の後でご挨拶を申し上げました<実践>はできましたか?
佼成4月号で、会長先生がお釈迦さまの誕生偈「天上天下唯我独尊」の真意を、<「あなたはすばらしい」と励ましてくださっているのです>とご紹介しました。このご法話を受けて私の方から「その真意を知った者としてご家庭の大切な方に<あなたはすばらしい方ですね>と言ってみましょう」と<実践>を投げかけましたが…いかがでしたか?
いろんなお声や楽しい反応が返ってきそうですが、“自分の尊さを確認して相手を尊ぶこと、他のいのちを大切にすること”が仏さまの教えの一番大切なことであると思います。そしてご法話の通り、誕生偈にこそ、お釈迦さまの願い、信仰の目的が詰まっていると言っても過言ではないと感じています。
信仰は、実践と実感です。どうぞあと半月の間で、是非<実践>してみましょう。その時に合掌を添えて言えたら最高です。私も実践を続けま〜す。 合掌(*^^*)
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先輩会員さんの体験談
枚方北支部
栗栖 婦人さん(87歳)
教団創立85周年の佳き年に、大阪教会会員特別功労者の表彰をいただき、誠にありがとうございます。
入会して55年になります。広島で義姉が会員でした。私の入会動機は幼い娘の病でドキドキした日々の中に、安らぎが欲しかったからです。先祖供養、お導きをさせていただくうちに元気になってきました。お役は地区主任・支部会計をさせていただき学びの多い時期でしたが、主人には心配をかけ修行を止められる時もありました。
地域で活動をしていた頃、広島で末弟家族と同居していた認知症の義母の介護を、長男である主人が引き受けました。親孝行の家庭実践をする機会を得て、教えを生かして最後までお世話ができますようにと念じて11年が過ぎ、104歳でお別れしました。
主人は透析中で楽ではありませんでしたが、実母がそばにいて心が和んだのです。琵琶湖の蓮を見るのが好きで、上に乗ってみたいとつぶやき、一週間後に旅立ちました。家族で力を合わせて、乗り越えた日々が心の宝となりました。
支部サンガに支えられて今日まで修行できた事に感謝し、これからも地道に温かいふれあいを心がけて精進して参ります。
]]>4月の東教会長あいさつ
大阪教会のみなさま (*^^*)“ごきげんよう”
春四月を迎えました(*^^*)
8日、お釈迦さまの「降誕会」をお迎えします。オンラインと共に教会では支部に割り振ってご参拝を開始していますが、あらためて仏教徒として教えに縁あるいまを心から感謝し、お釈迦さまのお誕生をお祝いしたいと思います。合わせまして、今日は大阪教会の59回目の発足記念日です。教会のお誕生日、サンガの皆さまにも感謝を込めてまいりたいと思います。
大阪教会は、1964年4月1日、大阪中央支部として古い旅館を改造した建物で発足しました。当時は奈良県全域まで包括し、68年には大阪教会。2年後の1970年には会員1万世帯に至るなど布教に尽くされてきました。そして社会の悩み、苦しみを救うという発足目的と役割を引き継いで、来年4月に60周年を迎えます。
丁度、人で申しますと還暦に当たります。そこで、古来より謂われる“原点に立ち返るとともに新しくスタートする”意味を込めて、さらにお一人おひとりがお幸せになり、仏となる価値ある人生をしっかり歩もうという誓願を込めて<NEXT❢60>というマークを作成しました。(※下のマークをコピーして自由にお使いください)
佼成4月号のご法話では、誕生偈「天上天下唯我独尊」で、<お釈迦さまが「あなたはすばらしい」と言っておられる>と励まして下さっています。「我」とは私たち自身のことです。“私たちは、類のない仏のいのちと心を具(そな)えていて、自分の尊さに気づき、そして全てのものの尊さに気づいていく”―このことこそ、仏さまの教えを信じ行じていく一番の功徳ではないかと感じます。
1年後に60周年を迎えます。このような信仰心を育みながら、マークに込めた願いをもって大切な一年を過ごしてまいりたいと思います。ビデオレター4月号でも詳しくお伝えしていますので、是非ご視聴ください。
今月もどうぞよろしくお願いいたします。合掌
◆ビデオレター4月号はYouTubeにて配信中です。アドレスおよびDVD版は支部長さんよりご案内がございます。
大阪教会発足60周年ロゴマーク
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会長法話
朝が大事
庭野日鑛 立正佼成会会長
「日々感謝で目覚め」
「春眠や慈母の懐にあるごとく」(佐藤春夫)。春の朝のぬくもりと、心地よい気分が伝わってくる一句です。だからでしょうか、漢詩に「春眠暁を覚えず」と詠われ、「朝寝」は春の季語になっています。たまにはそういう日があってもいいでしょうが、「朝こそすべて」といわれるくらい朝のありようは大切ですから、年度初めにあたり、一日のスタ−トである朝の意義をあらためて考えてみたいと思います。
まず自分のことから申しあげれば、私はいま、毎朝四時に起床します。人生の先輩である千玄室先生(裏千家大宗匠)に倣ってはじめた習慣です。ただ、最近では三時ごろに一度、目が覚めて、四時に設定した時計のアラ−ム音が鳴る前に自分で目覚まし時計を止めて起きだすことが多いのですが、それも年齢を重ねて時間を有効に使える体質になってきたと受けとめれば、うれしい変化と申せましょう。
まず洗面をすませ、そして最初にすることは、ご宝前のご本尊の扉を開けることです。早朝の静かななかで合掌し、礼拝をして、「きょうもまた、元気で仏さまにお会いできた」と新鮮な感慨を覚える――そうして一日を感謝でスタ−トできることが、私のその日一日をすごす活力の源になっています。
朝のご供養までにはまだ時間がありますから、そのあとは書斎で昔から書き溜めてある古今の箴言<しんげん>(教訓や戒めの言葉)を朗読したり、軽い体操をしたり、室内でエアロバイクをこぐ運動にもとりくみます。
箴言は声にだして読むだけで気持ちが高揚してきますし、運動はそれをしようと気持ちを前向きにすることに大きな意味があります。私のように腰が痛いとか、あるいは心配ごとがあるとき、人はその痛さや不安にとらわれて弱気になりがちです。だからこそ、朝いちばんに感謝や誓いや運動をとおして心を前向きにすることが大切だと思うのです。
誕生偈ではじめる一日
私たちの朝の日課で、神仏へのごあいさつと読経供養は外せないものですが、礼拝にもご供養にも通じる合掌には、元気と活力につながる着目すべき点があるようです。
先月少しお話しした、私が健康に関心をもつきっかけになった本に、両掌を密着させて、顔面の高さで合掌を連続四十分間行うと、古代ギリシャの神文に「合掌して按手すれば万病を癒す」とあるような手をつくり、ローマの神咒で「合掌は神に通ず」といわれる手をつくるとあります。また、その手掌をもって行なう五分間ほどの合掌は「その日の無病息災を保証する」とも記されているのです。
ただ、ここで大切なのは、長く合掌するということよりも、合掌礼拝が神仏に通じており、その敬虔な気持ちがストレスを和らげ、自然治癒力など潜在的な力を引き出す可能性があることです。まして、朝いちばんにまごころをこめて神仏と向きあう合掌ともなれば、帰依心の深まりとともに、持ち前の活気がより呼び覚まされるのではないでしょうか。私たちは、そういう合掌を毎朝しているわけです。
また、「一日は一生の縮図」といわれますが、その意味でいうと、朝の目覚めは誕生の瞬間そのものです。「今日ただいま誕生」。そういう新鮮な気持ちで朝を迎えると、日々新たになり、きのうまでのとらわれを離れた前向きな心で一日をはじめることができるのです。
釈尊降誕の月にちなめば、毎朝、誕生偈「天上天下唯我独尊」の意味あいをかみしめることにも意義があります。赤ちゃんの産声という力強い誕生の宣言を、すべての生命の尊さを称える言葉で表現したといわれる誕生偈にこめられた「あなたはすばらしい」という釈尊の励ましを受けて、お互いさま、朝のスタ−トをきることにいたしましょう。
◆「佼成」4月号 会長先生のご法話はこちらで視聴できます
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FM大阪の日曜日夜の「サンデースペシャル」に、東京佼成ウインドオーケストラ(TKWO)が登場して、特別番組「明日への希望とともに」が放送されます。
番組では、TKWOコンサートマスターの田中靖人氏がパーソナリティーを務め、TKWOの魅力を伝えます。さらに、ゲストに東京オリンピックの閉会式などでも演奏した東京スカパラダイスオーケストラの北原雅彦氏が登場。田中氏と音楽の魅力、吹奏楽の素晴らしさを語って、吹奏楽部で頑張っている学生を励ますと共に、音楽ファンに素晴らしい「音」をお届けします。どうぞKoseiサウンドを是非お楽しみください。
☆日時:2023年3月19日(日)19時〜19時55分
☆FM大阪
https://www.fmosaka.net/timetable
(TOKYO FM、FM北海道、福島FM、FM新潟、FM福岡など)(FM愛知のみ21時〜21時55分)
※聴取エリアについては、各放送局のウェブサイトをご確認ください。聴取エリア外にお住まいの方は、インターネットでのラジオ配信サービス「radiko(ラジコ)プレミアム」(有料)の利用でお聴きになれます。
※東京スカパラダイスオーケストラの北原雅彦さんと田中さんのトークを、AuDeeで、お届けします。配信は3月19日の放送直後(20時頃)。AuDeeのアプリ、ウェブサイトからお楽しみください。全国で聴取可能です。
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東教会長のことば(3月15日号)
大阪教会のみなさま (*^^*)“ ごきげんよう”
3月5日、「教団創立85周年」をお迎えしました。誠におめでとうございます。
当日は、大聖堂からの記念式典の様子をオンラインで拝見しました。ご法話の中で強く印象に残りましたのが、“人生は習慣の織物”であること。人間として正しい行いを習慣にしていかないと人格や心が成長しないままになってしまうこと。なかでも開祖さまは、人間らしい人間になるための心がけとして、常に出会う人に対して合掌され、礼拝されていたという部分でした。
このお話を聞きながら、思わず、以前の自分がどうであったかなと考えていました。
青年の頃、「合掌する」という習慣はありませんでした。けれど入会して数十年、いまはどの方と出会っても合掌しようとする自分に気づきます。無意識のうちに…。そのように思うと、毎年迎える周年ですが、自分も一年一年という信仰の積み重ねで生きているのだと感じます。
「周年は記念日」だと思いがちですが、自分に置き換えてみると<信仰者の年輪>ともとれるなと感じました。いかがでしょうか。
もう少し付け加えると、大仰な言い方ですが「何故、お釈迦さま、法華経を信じて敬うのか、その私が何をするのか」を確認する機会なのかもしれません。会員綱領に『家庭・社会・国家・世界の平和境建設のため』とありますが、何か役割を果たしたい自分、「願生」をもっている自分を確認する実は大切な機会なのかもしれないなと感じます。
どうぞ今月は、「教団創立85周年」をお祝いしながら自分自身の信仰の年輪も振り返っていただき、いまあるいのちの有難さに感謝し、家庭や地域にお役に立つ自分になれるように善き習慣を身に付けてまいりたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。 合掌
]]>第1組:令和5年3月18日(土) 9:30〜11:00
第2組:令和5年3月18日(土)13:00〜14:30
第3組:令和5年3月19日(日) 9:30〜11:00
◆各支部参拝日程 ※支部代表者のみ参拝
第1組:中央、城北、平野、守口、寝屋川西、枚方南、藤井寺
第2組:港、城東、西南、門真、寝屋川東、東大阪西、八尾東
第3組:北、城南、淀川、大東、枚方北、東大阪、八尾南
◆ライブ配信のお知らせ
第1組(3月18日午前)のみライブ配信を行います。
配信後には録画映像を見ることができます。
ぜひご活用ください。
アドレスは支部長さんより案内がございます。
]]>3月の東教会長あいさつ
大阪教会のみなさま (*^^*)“ごきげんよう”
ロシアのウクライナ侵攻から丸1年が経ちました。昨年の2月24日、10万人規模のロシア軍がウクライナ国境で一斉に砲撃を開始。かつてはソビエト連邦の地方都市であったウクライナとの和平を定めた合意を一方的に破棄して、欧米寄りになることを嫌った侵略という愚行でした。いまや全面戦争の段階にまで至っていて、核の脅威まで言われています。世界の大半が和平を希求していて、外交による平和解決が尽くされています。平和を希求する願いは届くのでしょうか。
私たちの教えには、「無縁の慈悲」と呼ばれる心があるとお話ししました。「無縁」とは限りなく広く、無条件に相手を慈しむという心です。
寒さが厳しい今冬、ウクライナの国内外に避難している方々に向けて、一食を捧げる運動をはじめ越冬支援のための「ウクライナ緊急支援募金」が呼びかけられています。今までに2,000万円以上の浄財が寄せられて支援活動が始まっています。
(詳細は佼成新聞⇒https://shimbun.kosei-shuppan.co.jp/news/61498/)
なかでも、日本の使い捨てカイロは重宝されていていますが、駐日ウクライナ大使館への協力として、全国各地から送られてくる使い捨てカイロ約50万枚のウクライナまでの送料を支援しています。
いま、私たちは侵攻問題に直接何かできる訳ではありません。しかし、日常の中で、誰彼に対して思いやりをもってみる、苦しむ方々を思って真剣に平和を祈念してみる。そんな小さな行動が大きな念になって、平和を希求する働きにつながると思います。
今月は、「教団創立85周年」を迎えます。当時の社会の苦しみ、悲しみを救いたいと開祖さま、脇祖さまによって創立され、平和を希求する教団として生まれたのでした。その創立精神と社会的な意義を、私たちは信仰心や実践によって未来に伝えていかなければならないと感じます。
今月も、よろしくお願い申し上げます。 合掌
◆ビデオレター3月号はYouTubeにて配信中です。アドレスおよびDVD版は支部長さんよりご案内がございます。
]]>会長法話
健康と元気は「心」から
庭野日鑛 立正佼成会会長
体と心は深くつながっている
外出の機会が減ったここ数年、家に籠ることが多くて運動不足だという人は少なくないと思います。歩かないと足の筋肉も落ちてきますから、少し歩くだけでも疲れやすく、それでますます外出するのがおっくうにもなりがちです。
その筋肉については、筋肉の量の多い人ほど長生きができるという報告があるようです。筋肉と、免疫や血糖値との関係などからそのようにいえるそうですが、加齢とともに筋力が衰えてくることは私も実感するところなので、酷暑の夏は別にして、健康のため一日一時間ほどの散歩はいまもつづけています。ただ、健康維持に欠かせないのは、何も「体の筋肉」の鍛錬だけではないように思います。
体と心は相即不離の関係で、精神作用は体に影響しますから、「心の筋肉」にも日々、感動や感激などの刺激を与え、つねに活性化させて、身心両面から衰えにくく病気になりにくい体質をつくることが、いつも元気でいるためには大切なのです。以前から私淑する安岡正篤師も、不健康や老化の原因は、肉体よりも精神にあると述べています。
とくに「身辺の雑事、日常の俗務以外」のことへの関心が薄れたり、つまらないことにとらわれたりしていると、向上の喜びや感激を味わうことがなくなって心から活気が失われ、それがひいては体に影響をおよぼすというのです。
では、雑事や俗務に追われるなかにあっても、感激や向上を喜ぶ心をたもち、活発な精神を維持するために大切なことは何か――安岡師はつぎの三つを挙げています。
「健康の三原則」
まず一つめは、「心中常に喜神を含むこと」です。喜神の神とは、深く根本的な心のことです。つまり、いつも心の奥深くに喜びをもつということですが、それは、目の前で起こる一つ一つのできごとを、仏の説法を頂戴する気持ちでつねに悦びをもって受け入れるということではないでしょうか。たとえ苦しくても「仏さまはいま、私に何を教えてくださっているのだろうか」と、目の前の現実を前向きに受けとめるとき、その苦しさの向こうに救いの光があることに気づいて、私たちの心は磨かれ、成長するのです。「心の筋肉」を落とさないための原則の二つめは、「心中絶えず感謝の念を含むこと」だといいます。たしかに、「ありがたい」という感謝の思いは、その言葉を口にするだけでも、私たちにいつも新鮮な感動をもたらしてくれます。
三つめは、「常に陰徳を志すこと」です。これは、実際に人知れず善い行いをすることだけにとどまらず、日々の暮らしのなかでふれあう人を思いやることも、相手の利益や幸せを願って「まず人さま」の実践を心がけることも含まれると思います。そして、このような心になれば体も健康になるという意味で、安岡師はこれらを「健康の三原則」というのです。ただ、私たちからすれば、この三つが心に修まっている人をこそ菩薩と呼ぶのではないでしょうか。
ところで、私が健康に関心をもったのは、昭和三十五年に神田の古書店でみつけた「西式健康法」に関する本がきっかけなのですが、その年、私は開祖さまから「次代会長に」と指名されています。いま思えば、二十二歳の私にとっては不安ばかりがつのるなかで、その精神の不安を肉体の健康をたもつことで抑え、身心の調和をたもとうとする本能的な行動だったのかもしれません。
その私も今月、おかげさまで八十五歳となり、本会も八十五周年を迎えます。いまだコロナ禍という長いトンネルを抜けだせないなかですが、まずは身近な人に心の健康法ともいえる妙法の有り難さをお伝えし、われひとともに元気で生き生きとした家庭や社会を築いてまいりましょう。
◆「佼成」3月号 会長先生のご法話はこちらで視聴できます
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東教会長のことば(2月15日号)
大阪教会のみなさま (*^^*)“ごきげんよう”
本日、釈尊涅槃会をお迎えしました。
大聖堂の式典にオンラインで参加させていただきながら、お釈迦さまのご生涯をしみじみと追慕、追想させていただくことができました。仏教徒として今あることにあらためて感謝をさせていただきます。誠にありがとうございました。
お釈迦さまのご生涯は、そのまま布施の実践であり、人々の救いのために慈悲に徹せられたと語り伝えられています。そのご生涯を振り返られながら、入寂されるこの日、弟子たちに<多くの人びとの利益(りやく)のために、多くの人びとの幸福のために、世間の人びとをあわれむために教えを実践し、法を伝えてほしい>と未来を託されたのです。
現代の弟子は、私たちです。
会長先生は「人に明るく、やさしく、あたたかく接することを大切にして、人さまのために心をくだき、思いやりを実践に移すことで少しでも喜んでいただけたら、私たちの神力の発揮にほかならない」とまでご法話くださったことがありました。
このご法話を最初に伺った時に「涅槃会」は、お釈迦さまが未来の弟子に<未来>を負託された日だと感じました。どうか、未来の人々の幸福のために語られた言葉を自分自身の<大事>にさせていただき、諸仏が成仏を保証する教えをしっかり実践してまいりたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。 合掌
]]>2月の東教会長あいさつ
大阪教会のみなさま (*^^*)“ごきげんよう”
あとわずかで立春を迎えます。
「一月往ぬる、二月逃げる、三月去る」。年初めの忙しさを軽妙に表現したことわざですが、本当に言い得て妙です。<時間を守り、場を清め、礼を正す>とは、古来言われてきた日本人の精神ですが、瞬く間に時間が過ぎていくなかで自分を見失わない大切な生き方です。一年の計に加えてみてはいかがでしょう。
さて、10年に1度の寒波―本当に寒い日が続きますが、「寒中法華三部経読誦修行」も終盤を迎えています。ひとつのことを長くコツコツと続けることは、自分で決めたことであっても本当に困難なこと。自分の努力もあってですが、「周りの支え、神仏のご加護」と<感謝する心>がふつふつと湧いてまいります。読誦修行は読誦を通じて、一年の計を身に心に沁み込ませる修行です。「元気で精進を」ともうひと頑張りです。
本日は、朔日参りと共に「節分会」をライブ配信致しました。追儺の方44名、還暦の年祝いの方60名の皆々様のご健康とご多幸を、サンガ清衆とともに祈念させていただきました。録画でもご覧いただけます。また、「ビデオレター2月号」も本日配信しました。今年の年回りにも触れていますので、合わせて是非ご覧ください。
今月もご一緒に精進に励みたいと思います。 合掌
◆ビデオレター2月号のご案内
YouTube版:配信中です。アドレスは支部長さん、各地区主任さんより案内がございます。
DVD版:2月12日(日)より支部長さんへお渡し予定です。
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◆「佼成」2月号 会長先生のご法話はこちらで視聴できます
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聖壇開帳時間:午前10時から午後1時
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昨年同様、令和5年次「寒中読誦修行」もご自宅での修行をお願い申し上げます。
本部からライブ配信がございますので、是非ご参加ください。なお、以下をご確認の上、ご参加いただきますようお願い申し上げます。
1.ライブ配信の詳細について
(1)配信日時について
令和5年1月20日(金)〜令和5年2月3日(金)
5:30 テスト画像配信(ライブ配信前に流れる地球儀の画像)
5:50 読誦内容概説
6:00 読誦修行開始
終了
※全日開始時間は同じです
※1月20日(金)、2月3日(金)の読経修行後には導師挨拶がございます
日程は以下のとおりです。
(2)ライブ配信参加について
教団ホームページ内「大聖堂ライブ配信」よりご参加ください。※パスワードは各支部の支部長さん、地区主任さんにお尋ねください。
2.動画配信期間
令和5年1月20日(金)5時50分 〜 令和5年2月9日(木)23時59分
また、教団ホームページに、「心ひとつに 寒中読誦修行」カードが掲載されています。
(掲載場所:トップページ⇒活用する⇒お役立ちツール⇒行事用チラシ)※パスワードは各支部の支部長さん、地区主任さんにお尋ねください。
カードには、寒修行の意義や読誦スケジュールの他、読了チェック欄、「私の誓願」を記入する欄などが掲載されています。
印刷して配布する用のデータ「印刷用ダウンロード【Word】」と、LINEやメールで情報共有するためのデータ「スマホ用ダウンロード【PDF】」の2種類がございます。用途に合わせて是非ご活用ください。
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