2019年2月 会長先生法話
※2月1日朔日参り(布薩の日)式典にて大阪教会松本教会長より教団月刊誌「佼成」2月号『会長法話』から今月の信仰生活の指針を頂きます。
会長法話
人を思いやる「心の習慣」
庭野日鑛 立正佼成会会長
得 は 徳 に 通 じ る
街のなかで困っている様子の人を見かけたとき、みなさんはどうされるでしょうか。そばに寄って声をかける人も多いと思いますが、気にかけながらも、よけいなお世話かもしれないと、近づくのをためらう人もいることでしょう。
一概にはいえませんが、私たちはふだん、ものごとを損得勘定で判断し、得にならないことには消極的になりがちです。人は、なかなか欲得ずくの心を超えられないのです。
最近では、トラブルに巻き込まれるかもしれないという懸念もあって、見ず知らずの人に声をかけるのは、確かに一文の得にもならないという見方もできます。しかし、ほんとうにそれは得にならないのでしょうか。
損得の「得」は道徳の「徳」に通じる、といわれます。一文の得にもならないと思われることであっても、人さまを思うがゆえの実践は、それを行なう人の徳分として、人間的な成長など尊い心の財産になります。人として成長したいと願う欲得が、人間性の向上という「徳」を招き寄せるという意味で、「得」は「徳」に通じるということです。
ただ、そのことがわかっていても、困っている人を見て、「なんとかしてあげたい」と願う気持ちを実際の行動に移す、その一歩を踏みだす勇気が出ない人もいます。
無量義経に「憐愍の心を生じ大慈悲を発して将に救抜せんと欲し、又復深く一切の諸法に入れ」(説法品)とありますが、これは、菩薩に「目の前の人を憐れみ、思いやりの心を奮い立たせて、『苦しみから救い出そう』と決心しなさいと」と教える一節です。そして、そのためには「自分本位のとらわれや執着を離れて、ものごとの真実を見極めるよう精進することが大切です」と説かれています。
要するに、なかなか損得勘定を捨てられない私たちでも、精進によって欲得ずくの心を超えることができ、それが心の習慣になれば、どのようなときでも損得勘定に惑わされずに、人を思いやる気持ちを自然に行動にあらわせるということです。
す べ て は 一 つ
「雪が降ったら/寒かろう/冷たかろうと/お墓に/傘をさしに行く/幼子亡くした/お母さん」
このような詩の一節を目にしたことがあります。子を亡くした母親の、切ない気持ちがよく伝わってきます。それと同時に、菩薩が人を思いやる心情というのはこういうことではないか、と教えられた気がしたのです。
このお母さんは、いつでも、わが子と身も心も一つにして生きています。寒いよ、冷たいよ、という声なき声を聴きとり、わきあがる思いを素直に行動に移したのだと思いますが、そこに菩薩の慈悲を見るのは私だけではないでしょう。
先に述べた、「自分本位のとらわれや執着を離れて、ものごとの真実を見極める」というのは、この母親のように、自分と相手を一つと見ることです。さらに、すべてを一つと見れば、人の喜びや悲しみがよくわかり、そうしてわきあがる憐れみの心や慈悲の心に突き動かされて、思いやりを行動に移せるのです。「すべては一つ」という見方によって、思いやりが「心の習慣」になるということです。
以前、開祖さまの生誕地の新潟県十日町市を訪ねたとき、公園に建つ開祖さまの胸像が雨に打たれているのを見て、私も師父に傘を差しかけた覚えがあります。いつでも、だれに対しても、自然に思いやることができるよう、私もいっそう精進をしてまいりたいと思います。
ただ、至道無難禅師は「慈悲して慈悲知らぬとき、仏というなり」と教えています。相手と一つになれば、慈悲をしているといった意識もないまま、その思いやりがお互いの喜びや心の成長に結ばれていくのです。
- 2019.01.26 Saturday
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- 10:07
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- by rkkkinkiosaka