平成29年12月 会長先生法話

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    ※12月1日朔日参り(布薩の日)式典にて大阪教会:松本教会長より教団月刊誌「佼成12月号会長法話」にて今月の信仰生活の指針を頂きます。

    会長法話    

    「型」を身につける  庭野日鑛 立正佼成会会長

    「型」は方便

    柔道や剣道などのスポーツ、また芸術や芸能の道で、手本となる体勢や動作のことを「型」といいます。ただ、そのような世界に限らず、私たちの日常生活における身近な所作にも「型」というものがある、と私は受けとめています。たとえば、約束した時間を守る、朝、家族に「おはよう」のあいさつをする、はきものをそろえる、呼ばれたら「はい」の返事をする所作を「型」として身につけ、日々実践することが大切だと思うのです。ちなみに「所作」とは、仏教で「身と言葉と心の三つのはたらきの現われ」をさします。つまり私たちは、行ないや言葉をとおしてなんらかの心を表現しているわけです。

     では、その心とは何か。どのような心を「型」として身につけることが大切なのか―――結論を先にいえば、思いやりや慈しみの心にほかなりません。思いやりや慈しみを体現し、それを「型」として日々実践することによって、私たちは慈悲の心をさらに深く胸に刻みつけていくのです。生活のスタイルやリズムという意味では、仏道を歩む私たちにとって合掌・礼拝や朝夕の読経供養も大切な「型」の一つです。そうした実践も、思いやりや感謝の気持ちを身で示しつつ、そのことをとおして「常に思いやりと感謝の心で生きる自分」になる、日々の大切な精進なのです。「型」を身につけていければ、たとえ少々、心が乱れても、すぐに思いやりや慈しみの心に立ち返れます。その意味では「型」は「方便」ともいえますが、しかしそれは即、思いやりや慈しみという「真実」に直結するものです。

    「型」は無我の実践

     思いやりや慈悲の心が、日常生活での「型」の根底をなすとすると、その現われとしての所作・行ないに「これでなければならない」といった決まりはなさそうです。この世に一人として同じ人はいないのですから、思いやりや慈しみの心を反映した「型」も、個性に従って多様であるのが自然といえるでしょう。また、読経供養は正座が基本といわれても、膝が痛くて正座ができない人もいます。それは「型」を外れる所作かといえば、そうではないはずです。仏教に「一即多・多即一」という言葉がありますが、根底となる思いや願いを忘れないことが肝心なのです。その意味では、仮に個性の数だけ「型」があるとしても、自分勝手な「型」は、「型」とはいいません。むしろ、「自分の思い通りにしたい」というわがままな心を抑えるために「型」があるといえるのです。家族でも知りあいでも、何かのはずみで、顔も見たくない、口もききたくないというときがあると思います。その気持ちのまま朝、行き合ったならば、つっけんどんな態度をしてお互いに不愉快になります。ところが、合掌・礼拝や「おはよう」のあいさつを「型」として身につけていると、「顔も見たくない」という「我」が、その「型」によってとり払われて、自然に「無我」の状態になれます。そのあいさつが調和をとり戻す一歩となり、またあいさつをした人の心は、しないよりもずっと穏やかであるはずです。「型どおり」と聞くと、変化や工夫がないように思いますが、「型」に従って「そのようにしなさい」と、いわば問答無用で実践する機会は、自分の都合を大切にしがちな私たちが、無理なく「無我」になれる瞬間でもあるのです。

     本会の法座や読経供養、あるいは「まず人さま」の実践も、それをつづければ仏さまのような慈しみ深い人になれるという「幸せの方程式」として、本会の歴史を支えてきた大切な「型」であると思います。

     

     

     

     



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