平成29年戦争犠牲者慰霊・平和祈願の日

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    平成29年8月15日(火) 

    戦争犠牲者慰霊・平和祈願の日式典

    大阪教会 松本教会長講話(抜粋)

     お参りいただきありがとうございます。

    世界の情勢が毎日ニュースで報道されているわけですけれども、「今ほど真剣に平和を祈願しなければならない時はない」、というくらい大きな危機に直面しているのではないかと思います。万が一、アメリカと北朝鮮が争うようなことになったとすれば、日本は今まで中東で何かあった時と同じようなわけには地域的にもいかないように思いますし、安保法制が通っているわけですから、法律上も戦争に加担しなければならないという状況になってしまいます。平和を一番願われた開祖さまの弟子である私たちが今こそ真剣に祈願をさせていただき、平和への実践を決定させていただく時だと思います。そういう意味から今日の「平和祈願の式典」は非常に重要な意味を持っていると思うのです。かといってトランプ大統領に電話して「もしもし慎重に考えて下さい、過激な発言をしないように」と言うわけにはいきません。今私たちが出来る所で精一杯平和に向けての精神を高め、誓い、実践をさせていただきたいと思います。そんなことをもとに本日は、話をさせていただきたいと思います。

     今日は日本各地で色々な宗教や宗派、国でも式典が行われております。普通、第二次世界大戦で亡くなられた方ーー310万人の日本人が戦火に倒れられた、全世界では明確な数はわからないが5千万人以上の人が犠牲になられたと推定されているーーそういう方々の慰霊をするわけですが、本会の式典は第二次世界大戦をはじめとする全ての戦争犠牲者、民間人を含めた全世界の戦争犠牲者に対して回向供養の誠を捧げ、あわせて世界平和を祈念するということを目的にしているのです。今日は日本人だけを慰霊したわけではありません。全世界の戦争で亡くなった方々、犠牲になられた方々、しかも第二次世界大戦だけでなく、人類の歴史はずーっと戦争を繰り返してきた、その全ての戦争で亡くなった方々の慰霊をさせていただいたわけであります。それには深い意味があります。戦争というのは大変悲惨な結果をもたらすわけですが、その原因というのは、どの戦争もつきつめると私たちの心の中にある、人と争う心、人を責める心、こういう心が原因となって全ての戦争、争いはおこっているわけですから、そう考えると第二次世界大戦だけでなく、すべての戦争犠牲者を慰霊することは、その争い・戦争の根本原因である私たちの心をしっかりと見つめて平和に向けての実践を一人一人が決意していこう、そういうような意味合いが込められているわけであります。なぜ戦争が起こるのかということを、しっかり踏まえて二度と戦争が起こらないようにすることを決意し、又戦争のない平和な世界であり続けるために努力精進することを誓う日であるということです。

     先ほどは日本の国の大黒柱である壮年部さん、また未来永劫平和であり続けることを祈るという意味では青年部・学生部さんが、奉献、献撰のお役を勤めて下さったのは大変尊いことであったと思います。戦争は絶対しないという決意を未来に続けて欲しいという願いが込められた、尊い式典であったと思います。

     2001年アメリカで9.11同時多発テロがありました。それがもとになってアフガニスタン、イラクの戦争が続けて起こりました。その当時会長先生は度々ご法話でこうおっしゃっておられました。戦争の原因というのは、私たちの心の中にある。前記の戦争・紛争をおこしたのは、私だと会長先生はおっしゃった、もちろん先生が直接原因で何かされたわけでない、しかし原因は私の心のなかにあるというご法話を何度か下さった。それは私たちの心の中には思う通りにならないと人を責める心や自分を否定されると腹がたつというそういう心がある。この自己中心の心が戦争の原因なんだということなんです。褒められると私たちは嬉しいです。いつまでもお若いですねーと言われると嬉しいけれど、随分シワが増えましたねーと言われると「あなたに言われたくないわー」とこういう気持ちになります。否定的なことを言われると瞬間カチンとくるわけですね。「あなたのやってる事は間違ってるよー」と言われると「何言ってんの、あなたこそ間違ってんじゃないか」と言いたくなってしまう。「あなたのやっている事は素晴らしいですね」と言われると「お陰様ですよ」、という気持ちになります。縁起観だから、人から否定されたり、思いと違うことを言われたり、また思う通りにならない“縁”があると人を責めたり、言いわけをしたり、相手を攻撃したくなる心が出てくる、腹も立ってくる。この自己中心の心が戦争の原因なんだ、私たちの中にもそういう何か否定されたときは攻撃してしまうような心がある。それが戦争の原因、それが大きくなると戦争にまでなってしまう、だから戦争の原因は自分の心の中にある。仏教では宇宙全体が私の心だというんです。地球上で起こることは全て私の心の中にあることがあらわれているんだということです。区別しないんです、あれはアフリカ、中東、アメリカ、北朝鮮の問題、あるいは政治家の問題と区別しない、すべて見るもの聞くもの地球上で起こることは、全部私の心の中にあることがあらわれてきてる、という受けとめ方が仏教の考え方なんです。非常に深いんですよ、だから人のせいには出来ないし傍観者でいてはいけない、あの国は大変だなー、ここは涼しくていいわーなんて、おいしいものばかり食べながら客観的に見ていてはいけない。仏教徒は問題が出てきたときに、私の中にその原因があるとすれば何なのだろと、当事者意識をもって、傍観者でなく私の問題だと受けとめるのです。「私に原因がある問題だ」「私の心を教えて下さっている」というふうに思えば祈ることだって出来ます。今日は平和祈願の日、祈願することが出来る。関係ないと思えば全然関係ないが、仏教徒の私たちは世界中で起こることは私の問題だと受けとめていく。全て自分と教えていただくけれど、そういう心境になっていくことを教えていただいているわけです。会長先生は戦争が起こっても私の心だ、私が起こしたとおっしゃっているのはそういうことであります。私たちの心を変え改めない限り戦争はなくならないということであります。自分は絶対に正しい、だから自分の言う事を聞かない人は悪い人だと決めつけ、対立し責めるということはよくあります。例えば夫婦で買い物にいって品物を買うとき、私は安いほうがいい、家内はちょっといいものの方が長持ちするというふうにお互いが絶対正しいと思っている。買い物一つでもどっちかが折れて安いもの買った、あるいは高いものを買ったとしても後々で何かがあると、高いもの買ってもすぐこうなっている、とか安いもの買ったからこうなっているとか、後々尾をひきますよね。自分が正しいと思っているからその通りしないことは悪いことだと決めつけて、どこかで対立し、その時はまぁーまぁーで、折れてるみたいだけれども尾を引いて残ってしまっているということは家庭の中でもよくあることです。あるいは自分さえ得すれば良いと嘘を言ったり、ごまかしたりして利益を得ようとするそんなこともよくあります。子供の時なども親にこれが絶対必要で学校で皆が持っているんだといいながら、クラスで4〜5人しか持ってないものを買ってもらったりしたこともありますし・・等々。皆さんはそんなことはありませんか?誤魔化してでも自分が得をしたり利益を得たい、これもやっぱり自己中心な気持ですよね。

     学生生活では、友人を虐めるのは絶対にいいことではない、自分が虐められたら嫌なことは決まっているわけだから、人を仲間外れにしたりいじめることは絶対悪いことだと、頭の上ではわかって皆知っていても集団心理でしょうか、いつ自分が虐められる側になるかわからないと思うとやはり虐める側に入って、そしてその子を傷つけてしまうということもおうおうにしてあるわけです。大人になってもあることかもしれません。わがままだとかこういう事情だからしかたがないだとか自分を正当化して言いわけをするという心は全て自己中心から起こる心で、そういう心が大きくなっていくと、戦争になるまでになってしまうということです。その戦争につながるような自己中心な心、危険な心は他に害を与えると同時に自らも傷つけます。自己中心な危険な心、他を攻撃する心、自分を守って他をみんな悪者にしてしまう心を、丸い心にして下さるのが佼成会の教えなんです。丸い心の人が世界、日本中に増えていけば戦争はなくなる、私たちのまわりから争いはなくなっていくでしょう。

     今日の式典の回向文の中で会長先生は、「恨みは恨みによって止むことなく、ただ慈悲によって止む。これは永遠の真実である」という法句経の言葉と「危険をおかしてまで武装するよりもむしろ平和のために危険をおかすべきである」という開祖さまが国連軍縮特別総会で演説された内容を引用されて、私たち個人にとっても、これは大きな意味をもつ言葉なんだと教えて下さいました。恨みは恨みによってやむことはない—許せなかった人を許せないままで恨んだままいるのか、憎んだ人を憎んだままいるのか!もちろん憎むようなこと恨むようなことをされたから、責めたくなるようなことをされたから責める気持になるわけです。でも恨んだままでいたら無くなることはない、慈悲によってのみそれはやむんだ。慈悲の心で、恨むようなことをされた相手にそういうことをせざるを得なかった何か元がその人にもあったのだろう、人に恨まれていい気持になる人はいない、感謝されたり良く思われたいのが人の気持ちだ、だけどそうせざるを得ない事情があったのかもしれない。因縁や育った環境があったのかもしれない・・・その人の事情を考えると許していこう・・・恨んでいる人を許していこう・・・という心が持てるか・・・拝めない人を拝めるような心が持てるか・・そういう相手に対して懺悔・感謝を伝える実践ができるか・・・危険をおかして武装するよりも、むしろ平和のために危険をおかすべきである!なかなか懺悔をするとか感謝を伝えるということは、否定したい相手であればあるほどできないことですが、この実践こそ危険を冒すという言葉につながることかもしれません。許す、拝むということをさせていただくことが開祖さまが、「危険をおかしても武装するよりむしろ平和のために危険をおかすべきである」とおっしゃって下さった、私たちの身近な実践であるのではないかと思わせていただきます。自己を正当化して言いわけをする自分が正しいと嘘をいう、そして憎み恨み続けるという心は武装ともいえるわけです。そういう気持ちをなくして、人を許す心、拝む心、今日はそんなことをそれぞれ、お誓いさせていただきたいと思います。許せない人を許してみましょう!拝めない人を拝んでいきましょう!今まで懺悔できなかったことを懺悔していきましょう!そんな実践をさせていただくことが、今日の平和祈願にふさわしい実践のありかたではないかと思わせていただきます。皆様のご参拝に重ねて感謝申し上げまして、今日のお役にかえさせて頂きたいと思います、皆様どうもありがとうございました。 合掌      

    (文責:大阪教会IT委員会)



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