平成29年6月 会長先生法話

0

    *6月1日(木):朔日参り(布薩の日)式典に於いて大阪教会松本教会長から6月号教団月刊誌「佼成会長法話」より今月の信仰生活の指針をいただきます。
    会長法話
    「愚痴をいわない」 立正佼成会会長 庭野日鑛
    「知っている」という思いこみ

    不都合なことに遇うと、私たちは不平不満を口にしがちです。俗にいう「愚痴をこぼす」わけですが、この「愚痴」という熟語の二文字は、どちらも「おろか」を意味します。ただ、同じ「おろか」でも、「痴」のほうは(やまいだれ)のなかに「知る」という字の入った意味深長な文字で、いわば知が病気になっていることによる「おろかさ」を示しています。つまり、自分の知っていることがすべてと思いこみ、全体がよくわかっていないことからくる「おろかさ」ということです。ちなみに「愚」は、猿に似たナマケモノ類をあらわす象形文字の下に(心)がついた文字のようです。まわりくどく、心のはたらきの鈍い「おろかさ」を示しているとでもいえるでしょうか。また、愚痴には、「いっても仕方がないことをいって嘆くこと」という意味があります。確かに私たちは、いってもムダと知りつつも不平不満をいい、ときには思いどおりにならないことを人のせいにしてまで愚痴をこぼすのです。私たちがなぜ、そこからなかなか抜けださなせないのかといえば、自分の知っていること、思っていること、考えていることが「絶対に間違いない」という錯覚にとらわれているからです。まさに、「私は知っている」という病気にかかっているのです。
    道理がわかれば
    「私が正しい」「私は知っている」という気持ちが愚痴の原因の一つだとすれば、その心を省みることにより、不満や文句が少なくなりそうです。そして、反省することによってものごとに対する洞察が深まると、不平や不満の対象としか思えなかったことが、「仏の説法」と受とれるのではないでしょうか。日ごろから仏の教えに親しんでいると、愚痴をこぼしそうなときでも智慧の心がそれを鎮めてくれる、と経文にあります。「愚痴多き者には智慧の心を起こさしめ」という一節ですが、愚痴の対象が、「自分に大切なことを教える仏の説法だった」と思えたとき、そこには智慧の心がはたらいているといえそうです。そういう心のはたらきを、よりしっかりと自分のものにする方法があります。それは、この世のあらゆるものごとに共通する真理、つまり「真実の道理」を知ることです。この世のあらゆるものが、一つにつながるご縁によって生かされている事実を知ることです。この世のあらゆるものが、一つにつながるご縁によって生かされているという事実。その恩恵を受けて、いま自分がここに存在するという有難さ。このことが明らかになり、感謝できると、愚痴は出てこないのではないでしょうか。ひとことでいえば、天地自然の道理がわかれば愚痴はいえなくなるということです。経文には「若し愚痴多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬せば、便ち痴を離るることを得ん」ともあります。観音さまを念じ、敬う心をもちつづけると、愚痴を離れることができるというのです。仮に、ついうっかり愚痴が出そうになったときでも、観音さまのような慈悲の心・人に対する思いやりの心が、自分勝手な言葉や行動を押しとどめてくれるでしょう。そもそも、「観世音菩薩を念じる」というのは、自分もそうありたいと願う心のあらわれですから、自分のことよりも他人の幸せを喜べる人は、愚痴や不平から縁遠いはずなのです。それでも愚痴をこぼしそうになったら、「智慧がはたらくチャンスだ」と気持ちを明るく切り替え、あるいは日々の読経供養をとおして心を見つめなおして、真理にそったものの見方、受けとめ方に立ちもどればいいのです。


     



    calendar

    S M T W T F S
        123
    45678910
    11121314151617
    18192021222324
    252627282930 
    << June 2017 >>

    selected entries

    categories

    archives

    recommend

    links

    profile

    書いた記事数:18 最後に更新した日:2017/06/22

    search this site.

    others

    mobile

    qrcode

    powered

    無料ブログ作成サービス JUGEM