会長法話
「恥じること」は、善く生きること
庭野日鑛 立正佼成会会長
人間の基本
冬から春へと移り変わるこの時季の節分といえば、家のなかで「鬼は外、福は内」と唱えながら、炒った福豆をまく「豆まき」が日本の伝統行事として知られています。体調をくずしやすい季節の変わり目に、病をもたらす疫鬼を払って息災を願う行事ですが、私たちは疫鬼とともに貪・瞋・痴といった心をまどわす邪気をも払って、身心ともに健やかに、うららかな春の日を迎えたいものです。
ところで、同じ「心の鬼」でも、それを一文字で「愧」(忄りっしんべんに鬼)と書くと、意味あいがまったく変わってきます。こちらのほうは、むしろ払ってはいけない心、私たちがけっしてなくしてはならない心といえるものです。それは、自分の言動の過ちや至らなさに気づいて恥じる心です。
「慚愧」という言葉がありますが、この愧はもちろん、慚も「恥じること」を意味し、浄土真宗の親鸞上人は、信仰的な受けとめ方でより深く、この言葉の意味を説いておられます。慚とは自らの罪を恥じること、愧とは人に自らの罪を告白して恥じ入ること。また、慚は人に対して恥じることで、愧は天に恥じることだというのです。そのうえで親鸞聖人は「無慚愧はなづけて人とせず」といわれます。
恥じる心がないのは、本能のままに生きる動物と同じでけっして人とはいえない、恥じる心があればこそ、人が人として敬意や節度をもって生きることができ、人間関係も社会も成り立つということだと思います。「恥じること」は、いわば人間の基本条件といえるのです。
恥じることで救われる
では、私たちは何に対して「恥じること」が大事なのでしょう。親鸞聖人は「自らの罪を恥じる」
といわれますが、罪とはどのようなことだと、みなさんは思われますか。
「恥を知れ」という言葉を、人を非難するとき、その相手に向かって使う人をときおり見かけますが、この言葉は自分自身に向ける言葉だと思うのです。「恥を知れ」と内心で自分につぶやけば、ときに「私はいま、思いあがっていないだろうか」と謙虚さをとり戻したり、「欲望まるだしなのではないか」と反省したり、あるいは「家族に顔向けできないことをしようとしているのではなかろうかと」 とやましい行いを思いとどまるかもしれません。
私たちは「恥を知る」ことによって、日常生活のなかで知らず識らずに犯している罪から救われるということです。自分を苦しめたり、人を傷つけたりしないですむのです。「人間は恥ずる心を養いさえすれば、どうにか救われる」
碩学として知られる安岡正篤師の言葉ですが、私なりにいえば、恥を知ると、人は「真人間」に生まれ変わります。しかも、恥じる心は仏性と同じでだれにもあるので、恥を知る限り、人はいつまでも成長しつづけられるのです。
恥じることを心にとどめる、その心得を説くように、「つねに善き友に会って心をはずかしめられよ」といわれたのは浄土宗の法然上人です。釈尊は、善き友は仏道のすべてといわれましたが、家族をはじめとする身近にいるサンガは、いつでも自分のことを見守っていてくれる人です。ですから、恥ずべき行いは諫めてくれるでしょうし、私たちも愛する家族や仲間の前で恥ずかしい生き方はできません。サンガという善き友によって、私たちは自然に「はずかしめられる」のです。そうして心田が耕され、恥じることができるのは、サンガもまた仏さまだからです。
一方、社会や世界はいま、欲望と憎悪に満ち、人間らしい「恥」をわすれたが如き危うい情勢にあります。「恥」の字源は「懾れ」ですが、私は人が神仏を敬しておそれ、恥を知って生きることの大切さを強く思うのです。