令和6年 猿樂教会長のことば(3月15日号)
猿樂教会長のことば(3月15日号)
お彼岸の季節を迎えました。暑さ寒さも彼岸までといわれますが、早咲きの桜を目にするこの頃、春の訪れが近いことを感じます。
このお彼岸は、日本独自の仏教行事で浄土教に説かれる浄土思想を基にしています。よく極楽浄土や西方浄土といいますが、昼と夜の時間が同じ長さになる春分・秋分の日、その真西に沈む太陽のずっと彼方に極楽な浄土があると信じて生まれた信仰がお彼岸なのです。私たちもどうせ行くなら極楽浄土がいいに決まっています。わざわざ誓願してまで地獄を選ぶ人はいないでしょう。極楽浄土に行くには今世で徳を積むことが条件となるそうですが、その浄土行きの切符の一つが亡くなられた方々に思いを馳せる供養でした。
さて、お彼岸の月となりましたが、ある女性の会員さんの体験を紹介します。
その会員さんは65歳のときに膀胱を患ってしまいました。医者から、場合によっては膀胱を摘出するという苦しい診断をいただき、摘出するべきか、このままで治療を受けるべきか、迷いの中で訪ねて来られました。その会員さんに尋ねてみると膀胱はそのままにしたい、その上で治療を受けたいという願いです。そして会員さんにこれまでの人生を伺ってみました。
29歳のときです。ご主人さんはトラックの配送業をしていましたが交通事故に遭い亡くなってしまったそうです。その後は、家に鳴り響く電話は主人からではないか、生きているのではないかと急いで電話に出たことも幾度となくあったそうです。受け入れがたい事実にさびしさやわびしさを感じながらも残された二人の子どもの将来を案じ懸命に生き抜いてきました。そして、子どもたちを立派に育てあげ、これから老後のときをどう過ごすか、そう考えていた矢先の病気発覚でした。
鑑定してみると膀胱を患うような会員さんではありませんでした。亡くなったご主人を鑑定してみるとご主人が膀胱を患うような結果が出たのです。三十数年経っても主人が私とともにいる…。そう気づいた会員さんは早速、主人のご供養をします。これまでも幾度となく年回供養や追善供養をおこなってきました。しかしそれは残された者の悲しみのご供養であり、事故という悲痛のご供養です。でも今度のご供養は違います。もう一度、あの幸せなときを思い出して…。
そして車で1時間はかかる教会へ来るたびに、霊鷲山の石を膀胱にあててお題目を唱えます。1年が経過したころ、医者は膀胱に通した内視鏡を見て驚きます。「膀胱が光っている!」と。もちろん、医者やその病院の医療スタッフの献身たる素晴らしい治療が病気を治したことは言うまでもありません。しかし、そこに同時並行して、ご主人への感謝の供養と仏さまを感じる霊鷲山の石への帰依心が治療を支えたのは間違いないことでしょう。
本来、彼岸とは迷いの世界を離れて、悟りの世界に到達するという意味です。この会員さんも、膀胱を患うことを通して、これまでのさびしさやわびしさという迷いを離れて、ついにご主人への感謝に目覚めることができたのです。まさに浄土という世界に心を置くことが出来たのでした。
- 2024.03.15 Friday
- 23〜 猿樂教会長のことば
- 12:02
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- by rkkkinkiosaka