令和6年 猿樂教会長のことば(3月15日号)

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    猿樂教会長のことば(3月15日号)

     

     お彼岸の季節を迎えました。暑さ寒さも彼岸までといわれますが、早咲きの桜を目にするこの頃、春の訪れが近いことを感じます。

     

     このお彼岸は、日本独自の仏教行事で浄土教に説かれる浄土思想を基にしています。よく極楽浄土や西方浄土といいますが、昼と夜の時間が同じ長さになる春分・秋分の日、その真西に沈む太陽のずっと彼方に極楽な浄土があると信じて生まれた信仰がお彼岸なのです。私たちもどうせ行くなら極楽浄土がいいに決まっています。わざわざ誓願してまで地獄を選ぶ人はいないでしょう。極楽浄土に行くには今世で徳を積むことが条件となるそうですが、その浄土行きの切符の一つが亡くなられた方々に思いを馳せる供養でした。

     

     さて、お彼岸の月となりましたが、ある女性の会員さんの体験を紹介します。

    その会員さんは65歳のときに膀胱を患ってしまいました。医者から、場合によっては膀胱を摘出するという苦しい診断をいただき、摘出するべきか、このままで治療を受けるべきか、迷いの中で訪ねて来られました。その会員さんに尋ねてみると膀胱はそのままにしたい、その上で治療を受けたいという願いです。そして会員さんにこれまでの人生を伺ってみました。

     

     29歳のときです。ご主人さんはトラックの配送業をしていましたが交通事故に遭い亡くなってしまったそうです。その後は、家に鳴り響く電話は主人からではないか、生きているのではないかと急いで電話に出たことも幾度となくあったそうです。受け入れがたい事実にさびしさやわびしさを感じながらも残された二人の子どもの将来を案じ懸命に生き抜いてきました。そして、子どもたちを立派に育てあげ、これから老後のときをどう過ごすか、そう考えていた矢先の病気発覚でした。

     

     鑑定してみると膀胱を患うような会員さんではありませんでした。亡くなったご主人を鑑定してみるとご主人が膀胱を患うような結果が出たのです。三十数年経っても主人が私とともにいる…。そう気づいた会員さんは早速、主人のご供養をします。これまでも幾度となく年回供養や追善供養をおこなってきました。しかしそれは残された者の悲しみのご供養であり、事故という悲痛のご供養です。でも今度のご供養は違います。もう一度、あの幸せなときを思い出して…。

     

     そして車で1時間はかかる教会へ来るたびに、霊鷲山の石を膀胱にあててお題目を唱えます。1年が経過したころ、医者は膀胱に通した内視鏡を見て驚きます。「膀胱が光っている!」と。もちろん、医者やその病院の医療スタッフの献身たる素晴らしい治療が病気を治したことは言うまでもありません。しかし、そこに同時並行して、ご主人への感謝の供養と仏さまを感じる霊鷲山の石への帰依心が治療を支えたのは間違いないことでしょう。

     

     本来、彼岸とは迷いの世界を離れて、悟りの世界に到達するという意味です。この会員さんも、膀胱を患うことを通して、これまでのさびしさやわびしさという迷いを離れて、ついにご主人への感謝に目覚めることができたのです。まさに浄土という世界に心を置くことが出来たのでした。


    令和6年3月 猿樂教会長のあいさつ

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      3月の猿樂教会長あいさつ

       

       今月、教団は創立86周年を迎えます。また3月31日には、大阪教会は教会発足60周年を祝い幹部指導会を行います。

       

       さて、昭和13年3月5日に誕生した立正佼成会ですが、創立する直前、開祖さまはこのようなお心でいらっしゃいました。「人のために奉仕をするということが、人間の人間たる資格であると思う。そして、できるだけ多くの人が〈奉仕の精神〉を持ちうるところに、人間社会の平和と幸福が生まれるのである。もしすべての人間が、自分の利益を追う打算的ばかりで行動したとしたら、世の中は油の切れた機械のようにぎしぎしきしんで、とうてい住むにたえないであろう。いや社会という機械そのものが過熱して爆発するか、すり切れて壊れてしまうだろう。〈奉仕〉は人間社会の潤滑油である。(中略)人と社会に奉仕することは、世の中の動きに潤滑油を注ぐことにある。一滴の潤滑油でも、大きな機械の動きを滑らかにする。たとえ一滴でもいいのだ。仏教では、この潤滑油を〈菩薩行〉と呼ぶ。」

       

       こうして、立正佼成会は、日本が戦争に突き動かされていった昭和13年3月5日に、法華経を世に広めるという創立の精神と併せて、人間社会の一滴の潤滑油のようになることを願って創立されました。

       

       現在に目を向ければ、2年が経過したロシアによるウクライナ侵攻、昨年10月には中東のパレスチナとイスラエルの戦争。そしてミャンマーやスーダンにおける国の内戦。世界各地ではいまだ尽きることなく戦争・紛争が続いています。また、国内に転ずれば、幼児虐待や育児放棄など家庭内で起きている不適切な養育。独居老人の増加や希薄な人間関係といわれる無縁社会。企業や団体の中では人の尊厳を脅かすハラスメント問題。

       

       家庭も社会も世界も人と人をつなぐ歯車に大きなきしみが生じている今、開祖さまのおっしゃる通り、住むにたえない、すり切れて壊れてしまう世界がもうひたひたと寄ってきているように思えてなりません。仏教では、このようなきしむ社会を生み出す元凶は、人間の貪欲(とんよく)や割愛(かつあい)、驕慢(きょうまん)な心と捉えています。貪欲とは飽くことを知らない欲求であり、渇愛とは感覚的な快楽やものへの極端な執着です。また、驕慢とはおごり高ぶった心です。

       

       こうした貪欲や渇愛、驕慢な生き方を制御するためにも「謙虚で慎み深く、それがひいては地域、社会の人びとの心にぬくもりや元気を与える―そのような教団でありつづけること」「慈悲という釈尊の教えの根本に立脚してものごとを考え、行動すること」と、「慎み」と「慈しみ」をもって生きることの大切さが創立の月である今月の『佼成』会長法話に示されています。

       

       ご縁のある方、これから出会うであろう一人ひとりに「慎み」と「慈しみ」をもった身の振りと言葉で接してまいりましょう。それがきしむ社会を滑らかにする一滴の潤滑油になると念じて。合掌

       


      令和6年3月 会長先生法話

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        会長法話 

                                

        「慎み」は、「慈しみ」から 

         

           庭野日鑛 立正佼成会会長

         

        「慎む」とは思いやること

         

        「我宿の草木にかくる蜘蛛の糸払わんとしてかつは(すぐに)やめける」という歌があります。良寛禅師のやさしさがあふれた、あたたかな一首です。ふと払おうとした蜘蛛の糸、そこに精いっぱい生きる小さな命をみとめ、思わず手をとめた良寛さんのほほえみまでがめ目に浮かぶようです。

         

         なんの気負いもないちょっとした所作のなかに、人としての慎み深さと、あらゆるものを包みこむ慈悲心を感じます。

         

         慎み深くあることについて、釈尊は「身と言葉を慎み」や「身体、言葉、心を慎むのは善い行為である」など、先月号の「恥じること」と同様に、その大切さをしばしば述べておられます。私たちはこの言葉を、ともすると一般的な生活規範のように受けとめがちですが、 良寛さんの歌を見てもわかるように、慎みとは、慈悲と一体のものではないかと私は思うのです。仏教学者であり、曹洞宗の僧侶でもあった奈良康明師によると、釈尊の教えは「すべて『慈悲』というものに根拠をもって説かれている」といいますから、「慎む」ということも、思いやりの心を深めるものであればこそ、仏の教えとして説かれているのです。

         

         では、私たちに良寛さんと同じことができるかといわれると、至らぬ自分にそこまでは‥‥と、つい弱気になりそうです。それでも、せめて気がつくかぎり、慎みと思いやりをもった言動を心がけたいものです。

         

         なぜなら、奈良師の言葉をお借りすれば、「慈悲とは慈悲の実践つまり訓練によって増大し、熟していく」ものだからです。悟ったから慈悲心が起こり、慎み深い行ないができるのではなくて、他を思いやって言動を慎み接するなかで「みんな一つに結ばれている自他一体の命なのだ」と気づくことが大切で、そこに一つの悟りがあるのです。

         

        身近な実践から世界の問題まで 

         

         ところで、開祖さまは、本会の根本道場である大聖堂建立の年、いまから六十年前の三月四日に、 「教団は大伽藍ができると既成化する」と述べています。建物が大きいからりっぱな教団なのではなくて、また伽藍ができたからそれで教団が成熟したということでもなく、そこに集う同信の仲間一人ひとりが、仏の教えを学んでいつもいきいきとして、謙虚で慎み深く、それがひいては地域、社会の人びとの心にぬくもりや元気を与える―――そのような教団でありつづけることが大事だと伝えたかったのでしょう。

         

         その意味でいえば、本会の「一食を捧げる運動」が長くつづけられているのはとても重要なことです。もともとは松緑神道大和山教団のみなさんが実践されていたものですが、月に数度、各自の食事を抜いたそのぶんを献金させていただくという、まさに慈悲の心を実践に移し、それがまた社会貢献にも結実する身近なこの活動を、これからも大切につづけてまいりたいと願っています。

         

         また、世界宗教者平和会議など、宗教や宗派の枠を超えた仲間が、世界的な課題の解決をめざして対話を重ねることは、参集するそれぞれが謙虚に、自制心と慎みをもって臨まなければできないことです。開祖さまがその土台を築いてくださったのは私たちの一つの誇りと受けとめていますが、そうした活動が形骸化しないためにも、私たちはつねに慎みを忘れず、慈悲という釈尊の教えの根本に立脚してものごとを考え、行動することが大事なのだと思います。

         

         釈尊には、「あらゆることに慎み、恥じる人は自己を護る」というお言葉もあります。この「自己」を「宇宙全体と一体の自分」と受けとめると、身と言葉を慎むことの意味の大きさがより胸に迫り、世界のあらゆる場所で、一人ひとりが身と言葉を慎むことを念じずにはいられません。


        令和6年 猿樂教会長のことば(2月15日号)

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          猿樂教会長のことば(2月15日号)

           

           2月15日はお釈迦さまが涅槃に入られた日です。

           

           お釈迦さまは、生まれて間もなく母を亡くします。母の妹に育てられますが実母がいなかったせいでしょうか、とてもナイーブだったようです。畑にいる虫を飛んできた鳥が食べるのを見ては心を痛め、老いた人を見ては心が傷つき、病の人を見ては哀れみ、亡くなる人を見ては嘆き悲しんだといわれています。避けようのない生老病死という人生の悲哀から解脱を求めて29歳で出家し、35歳で悟りを開かれました。

           

           80歳で入滅されるまでの45年間、人々が抱える悲しみ、さびしさ、つらさ、苦しさという感情に向き合い、そして寄り添いながら、苦悩からの解放の道を説き続けます。

           

           さて、晩年から涅槃に入られるまでの間を記したお経があります。大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)です。入滅を前にしたお釈迦さまが弟子である阿難にこう語ります。

           

          「この世は美しい。人のいのちは甘美なものだ…」。

           

           苦悩に満ちた人生から解脱の方法を追い求め、人々を教化してきたお釈迦さまでしたが、いよいよ入滅が近づいたとき、この世のありとあらゆるもの、人間に訪れる人生の悲哀、生と死までもが美しく輝きを放つものであったと、このお経は伝えています。

           

           そして、人生をより美しく輝かせることができるよう弟子たちに最後の教えを説きます。自分の人生は自分で輝かすことができる。明るく美しく人生を輝かすためには正しい教えを拠りどころとすること。この正しい教えを拠りどころに生きれば人生は必ず美しく輝く。それが自灯明・法灯明というお釈迦さま最後の教えです。

           

           人生を美しく輝かせる教えである自灯明・法灯明。お釈迦さまが入滅されてからおよそ二千五百年の間、仏教徒たちはこの教えを大事に語り継ぎ実践してきました。

           

           2月15日はお釈迦さまを偲ぶ涅槃会。私たちも自灯明・法灯明の教えに倣って、人生を輝かせてまいりましょう。


          令和6年 節分会

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            節 分 会

             

            ◎令和6年2月3日(土)

            8:30 序奏/オープニング

            9:00 開式 

               司会:教会教務スタッフ 

               お題目三唱 会員綱領唱和

            9:05 読経供養 

               導師:猿樂教会長 

               鐘・木鉦:教会壮年部 

               太鼓:青年部 

               16番・陀羅尼五回 

            9:30 内陣豆まき 

               聖壇:猿樂教会長 

            9:35 追儺・還暦者の紹介

               (テロップ)

               追儺:男性23名 女性12名 

               還暦:男性:24名 女性22名 

            9:40 講話 猿樂教会長 

            10:20 お題目三唱 

            10:25 閉会の辞

             

            <還暦者コメント:大東支部  木村壮年部>

            還暦を迎え、両親、ご先祖さま、ご本仏さまに深く感謝いたします。還暦とは一に帰るまた、生まれ変わるという意味があるそうです。猿樂教会長からは今年(九紫火星)は準備の年と教えていただきました。すべての人に生かされている感謝の気持ちを菩薩行の実践の形として、心新たに明るく、元気に精進して参ります。

             

             

             

            ◎猿樂教会長の講話(一部抜粋)

            運勢は断定なく、あくまでも傾向です。良い運勢(吉)なら安心ですが、悪い運勢(凶)だと不安になります。悪い運勢(凶)は、今年のハードルだと心得てください。ハードルは飛べば乗り越えられるのです。

            そのハードルを乗り越える行為。それが菩薩行です。


            令和6年2月 猿樂教会長あいさつ

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              2月の猿樂教会長あいさつ

               

               いよいよ寒修行が始まりました。寒修行は一年で最も寒さが厳しいとされる大寒の1月20日から節分の2月3日までの15日間で行われます。『法華三部経』の読誦を通して内省し、今年1年の誓願目標を立てるとともに、仏道修行に励む心構えをつくる修行です。

               

               教団の草創期の寒修行はどのようなものなのであったのか…。開祖さまのご法話を調べてみますと昭和62年3月号の『躍進』に、このように述べられていました。

               

              「寒修行など、一月から二月にかけての期間中、毎朝四時に起きて水をかぶる。二十杯、三十杯とかぶって、それから三部経をあげ、経巻をあげる。信者さんはそれぞれ自分の家で、主体的にこの行をやったもんです。だから、驚くほどの現証が続々と出た。奇跡としか言いようのない結果が出たものです。今もこのとおりしなさいとは言わないが、そうした精神を失っちゃいけない。人を救い、世を救うためには、すくなくとも自分の好きな物を断って、断ち物をして祈るぐらいの気魄、情熱、それが欲しいね…。」

               

               このご法話のように断ち物をして祈り、奇跡をいただいたある主任さんの体験をお伝えいたします。

               

               主任さんの息子さんは就職していた会社が経営破綻し、その後、別の会社に再就職はするものの契約はアルバイトでした。息子さんを心配した主任さんは、何とか正社員のお手配をいただきたいと願っていました。ところがあるときサンガの仲間から指摘されます。「あなたは、自分は仕事し放題、遊び放題、その間に片手間にお役をして、そんな生き方でいいわけないよね」と。このことを心構えに寒修行に臨み、法華経読誦が進む中、ハッと気づきます。「子どものことで祈っているようで、私もまた仏さまに祈り祈られ願われているんだ。自分都合で片手間な気持ちでお役をしていた。子どもを変えるのではなく、自分が変わろう。お役も正社員のような気持ちでさせていただこう。」と。そして思い切って仕事を辞めることを決断しました。すると不思議なことに息子さんが正社員のお手配をいただいたそうです。

               

               まさに感応道交という、主任さんの心と仏さまとの心が通じ合った世界でしょう。主任さんは、開祖さまのおっしゃるように気魄と情熱をもって寒修行に臨み、法華経に説かれていることは何なのかと観察し、仏さまのお心は一体どのような世界なのかと感じたのです。寒修行は観修行、感修行ともいわれます。法華経を観じる修行、仏さまを感じる修行の15日間とさせていただきましょう。合掌

               


              令和6年2月 会長先生法話

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                会長法話 

                 

                「恥じること」は、善く生きること

                 

                   庭野日鑛 立正佼成会会長

                 

                人間の基本

                 

                 冬から春へと移り変わるこの時季の節分といえば、家のなかで「鬼は外、福は内」と唱えながら、炒った福豆をまく「豆まき」が日本の伝統行事として知られています。体調をくずしやすい季節の変わり目に、病をもたらす疫鬼を払って息災を願う行事ですが、私たちは疫鬼とともに貪・瞋・痴といった心をまどわす邪気をも払って、身心ともに健やかに、うららかな春の日を迎えたいものです。

                 

                 ところで、同じ「心の鬼」でも、それを一文字で「愧」(忄りっしんべんに鬼)と書くと、意味あいがまったく変わってきます。こちらのほうは、むしろ払ってはいけない心、私たちがけっしてなくしてはならない心といえるものです。それは、自分の言動の過ちや至らなさに気づいて恥じる心です。

                 

                「慚愧」という言葉がありますが、この愧はもちろん、慚も「恥じること」を意味し、浄土真宗の親鸞上人は、信仰的な受けとめ方でより深く、この言葉の意味を説いておられます。慚とは自らの罪を恥じること、愧とは人に自らの罪を告白して恥じ入ること。また、慚は人に対して恥じることで、愧は天に恥じることだというのです。そのうえで親鸞聖人は「無慚愧はなづけて人とせず」といわれます。

                 

                 恥じる心がないのは、本能のままに生きる動物と同じでけっして人とはいえない、恥じる心があればこそ、人が人として敬意や節度をもって生きることができ、人間関係も社会も成り立つということだと思います。「恥じること」は、いわば人間の基本条件といえるのです。

                 

                恥じることで救われる 

                 

                 では、私たちは何に対して「恥じること」が大事なのでしょう。親鸞聖人は「自らの罪を恥じる」

                といわれますが、罪とはどのようなことだと、みなさんは思われますか。

                 

                「恥を知れ」という言葉を、人を非難するとき、その相手に向かって使う人をときおり見かけますが、この言葉は自分自身に向ける言葉だと思うのです。「恥を知れ」と内心で自分につぶやけば、ときに「私はいま、思いあがっていないだろうか」と謙虚さをとり戻したり、「欲望まるだしなのではないか」と反省したり、あるいは「家族に顔向けできないことをしようとしているのではなかろうかと」 とやましい行いを思いとどまるかもしれません。

                 

                 私たちは「恥を知る」ことによって、日常生活のなかで知らず識らずに犯している罪から救われるということです。自分を苦しめたり、人を傷つけたりしないですむのです。「人間は恥ずる心を養いさえすれば、どうにか救われる」

                 

                 碩学として知られる安岡正篤師の言葉ですが、私なりにいえば、恥を知ると、人は「真人間」に生まれ変わります。しかも、恥じる心は仏性と同じでだれにもあるので、恥を知る限り、人はいつまでも成長しつづけられるのです。

                 

                 恥じることを心にとどめる、その心得を説くように、「つねに善き友に会って心をはずかしめられよ」といわれたのは浄土宗の法然上人です。釈尊は、善き友は仏道のすべてといわれましたが、家族をはじめとする身近にいるサンガは、いつでも自分のことを見守っていてくれる人です。ですから、恥ずべき行いは諫めてくれるでしょうし、私たちも愛する家族や仲間の前で恥ずかしい生き方はできません。サンガという善き友によって、私たちは自然に「はずかしめられる」のです。そうして心田が耕され、恥じることができるのは、サンガもまた仏さまだからです。

                 

                 一方、社会や世界はいま、欲望と憎悪に満ち、人間らしい「恥」をわすれたが如き危うい情勢にあります。「恥」の字源は「懾れ」ですが、私は人が神仏を敬しておそれ、恥を知って生きることの大切さを強く思うのです。


                令和6年1月 猿樂教会長あいさつ

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                  1月の猿樂教会長あいさつ

                   

                   大阪教会60周年を迎える今年、明るく元気に、そして荷車を運ぶ牛のように、ゆったりと堂々と精進してまいりましょう。

                   

                   お正月の三が日は皆さまも心を痛められたのではないでしょうか。能登半島を襲った地震、羽田空港における航空機事故、北九州の繁華街で起きた大規模火災など目を覆いたくなるほど痛く悲しいニュースばかりでした。犠牲になられた皆さま、そして支援活動のために尊いいのちを犠牲にされた方々にお悔やみと哀悼の意を表します。併せて、被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げます。いまだ安否のわからない方々に、信仰を持つ私たちは深い祈りを捧げ、一刻も早く発見されることを祈念させていただきましょう。

                   

                   さて、今年初めの『佼成』では会長先生から〜「心田を耕す」精進を〜とご法話をいただいています。私たちは、仏道修行や精進と聞くと固く難しく考えてしまいがちですが、会長先生は初期の経典「スッタニパータ」を引用して「精進は荷を運ぶ牛で、安穏の境地に運んでくれる」と、田んぼを耕す牛にたとえて、安穏の境地に向かうにはゆったりと無理のなく実践することが精進であり、生きる基本であると教えてくださっています。

                   

                  「人間はみな同じ」「すべては一つ」「一人ひとりの命は等しく尊く、有り難いもの」「みんな一つの“いのち”につらなる仲間」という、これらの認識こそがまさに精進の基本です。

                   

                   このお正月はみなさんも心を痛められたはずです。被災された人々に心を寄せ、亡くなられた方々のご冥福を祈り、いまだ安否がわからない方々の一刻も早い発見を願って祈願供養をされた方、され続けている方々も多いのではないでしょうか。そこにはもはや他人と自分という境がなくなり自他一体の一つのいのちに貫かれているという自覚する心がご宝前の前に額づかせたのだと思います。

                   

                   その思いやりの心がとぎれることなく深い祈りを捧げさせていただき、また、私に何ができるのか、自分自身に問いかけながら、家族と語り合っていく今とさせていただきましょう。


                  令和6年1月 会長先生法話

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                    会長法話

                     

                    「心田を耕す」精進を 

                           

                       庭野日鑛 立正佼成会会長

                     

                    「精進は荷を運ぶ牛で……」

                     

                     みなさま、あけましておめでとうございます。

                    「門ごとにたつる小松にかざされて宿てふ(という)やどに春は来にけり」は、家々に春がおとずれる晴れやかな気分を詠んだ、西行法師の新春を寿ぐ歌です。新年に門前を松で飾る家もいまは少なくなりましたが、この日本のすがすがしい正月風景のようにさわやかな気持ちで、お互いさま、一年を明るく元気にすごしてまいりたいと思います。

                     

                     ところで、私たちは仏さまの教えを学ばせていただき、そのことによって人間として一歩でも二歩でも向上したいと願っています。それはけっしてかなわぬ願いではなくて、仏のように生きようと思い立ち、教えに随って精進していれば、いつでも人間としての成長や向上の喜びが得られると教えていただいてます。

                     

                     ただ、仏道修行や精進と聞くと、りっぱに努めなければ、すばらしい人であらねばと感じる人も多いようです。しかし、初期の経典「スッタニパ−タ」のなかで、釈尊は「精進は荷を運ぶ牛で、安穏の境地に運んでくれる」と説かれています。この表現には苛烈さや謹厳な印象などみじんもなく、むしろゆったりと静かに荷車を引く牛の姿や、牛が犂を引いて田を黙々と耕す様子が思い浮かびます。  そのようなことを念頭において、私たちもまた急がず休まず、仏の教えをとおして心の田を耕しながら、人生をゆったりと 歩むことが大切ではないかとの思いから、およそ四半世紀前に、私は『心田を耕す』を上梓いたしました。

                     

                     そのなかで先の一節もご紹介しましたが、それは釈尊の肉声にもっとも近いとされる聖典の詩偈をとおして、宗派や経典の違いを超えて共通するもの、仏教が教える人間の生きる基本をみなさんといっしょに考えたいと思ったからです。そのうえで、釈尊が伝えたいと願われたことをシンプルに受けとり、日々の生活のなかで無理なく実践することが、安穏の境地へ向かう精進ではないかと思うのです。

                     

                     では、釈尊が伝えられたかったこととはなんでしょうか。

                     

                    とぎれることなく 

                     

                     開祖さまは、「<人間はおなじ>・<すべては一つ>………これが仏教の根本思想にほかなりません」と明言しています。そのことに目ざめれば、ものの見方が変わり、生き方が変わり、そういう思いに立つ人がたくさんいる世界になれば、みんなが仲よく生きられる――それが仏教の教えるところだということです。たとえ教団や宗派は違っていても、みな「一人ひとりの命は等しく尊く、有り難いもの」「みんな一つの“いのち”につらなる仲間」という釈尊の教えのもとで一つに結ばれ、それを人びとの性質や多種多様な求めに応じてそれぞれに表現しているのだと、私は受けとめています。

                     

                     曹洞宗永平寺の貫首をつとめられた山田霊林師は、「道元禅師は何を見ても何を聞いても、それが『自分自身』であることを感じられました。(中略)わたしたちが『他人』と呼ぶところを、禅師は『他己』と申されます。 他は他であるが、それがそのまま『己れ』として感ぜられ、その喜びも悲しみも『己れ』の喜び『己れ』の悲しみなのであります」(「大法輪」第三十六巻・第三号)と記され、それが「人間のほんとうの生活」だというのです。

                     

                     仏道における厳しい修行も精進にちがいありませんが、私は日常生活のなかで、自分本位の欲や怒りや嫉妬に心を惑わされるたび、「人間はみな同じ」「すべては一つ」という心に立ち返ることが精進であり、それをとぎれることなくもちつづけるのが私たち人間の生活、釈尊の願いに根ざす生き方であると思います。この気持ちが、日々の何気ない言動を支えるものになるよう心田を耕しつつ、一日一日を健やかにに、安らかに歩んでまいりたいものです。


                    令和5年12月 猿樂教会長あいさつ

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                      12月の猿樂教会長あいさつ

                       

                        皆さま よろしくお願いいたします

                       

                       

                       日々ありがとうございます。

                       令和5年12月10日に大阪教会長のお役を

                       拝命しました猿樂年央です。

                       皆さま、どうぞよろしくお願いいたします。

                       

                       まずは、簡単に自己紹介をさせていただきます。猿樂とは能面を付けて舞う能(能樂)の旧称です。昔の結婚式でよく謡われた『高砂』という謡曲も猿樂の一つにあたります。新郎新婦が座る一段高い席を高砂席というのは実はその名残です。そういう私は昭和42年に北九州市門司区で生を享けました。その6年後の48年に、生活苦を理由に母が門司教会に導かれました。

                       経済的に困窮していた我が家の問題がすぐに解決したわけではありませんが、家で問題が生じると早朝、深夜を問わずいつでも導きの親が駆けつけてくださったのを憶えています。私にとって導きの親は修羅場の中に現れた観音さまのような人でした。いつしかこのような人になりたいと思うのと同時に、導きの親は大人になった私をご本部へ奉職することを勧めてくださり、平成2年に奉職しました。

                       本部勤務後、関西四国教区の青年教務員のお役を通して大阪教会の皆さまにお育ていただきました。青年幹部教育やレディース教育などの青少年育成を担当させていただきましたことは懐かしい思い出です。その後、神奈川県の大和教会長、東京都の豊田教会長、九州の熊本教会長のお役を、そして再び大阪教会でご縁を結ばせていただくことになりました。18年ぶりの大阪は、高層ビルも増えていて街の賑わいもパワーアップされておりました。耳にする懐かしい大阪弁に「ああ、大阪に帰ってきた!」という実感とともに、元気のよい笑い声が私のエネルギーになっています。きっとサンガに皆さんもますますパワーアップしているだろうと期待に胸を膨らませるここ数日です。

                       

                       さて、今年最後となった『佼成』の12月号は「いつでも元気―病も辛苦も善知識」というご法話を会長先生からいただいております。

                      「災難や生老病死の苦しみは、この世のだれ一人として避けることができないものです。人の力ではなすすべのないもの、仕方のないことなのだから、それをあるがままに受けとめることが、その辛苦に押しつぶされないですむ唯一の手立てなのです。」と教えてくださっています。とはいえ、あるがままにその辛苦を受けとめることはなかなかできないのが本音でしょう。肯定することは難しいといえますが、「病弱な自分を救ってくれたのは、真理に気づくきっかけとなった病気そのものだった」という京都・禅林寺の永観律師の言葉を引用し、病や辛苦などの不都合な出来事を真理に気づくきっかけとすることの大切さをお示しくださっています。その見方が身につけば私たちの身心も元気になることでしょう。

                       過去のつらい出来事も思い通りにならなかった過去も、ご法話のように真理に気づけばみなおかげさまに変わります。まるで人生を化粧するように。

                       私たちが所依の経典とする法華経は私たちに仏さまがくださった究極のプレゼントです。過去も現在も未来もいくらでも彩りを変えることが出来る魔法の化粧品のようなものです。

                       

                       来年、60周年を迎える大阪教会のサンガの皆さまとともに、人生を彩ってまいりたいと思います。どうぞ皆さまよろしくお願いいたします。 合掌

                      令和5年12月17日

                       教会長 猿樂年央

                       



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